悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (155)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その四十

「風太郎先生‥‥無事でいるといいんだけど‥‥‥」
風太郎先生の活躍を語り終えた葉子先生は、ポツリとそうつけ加えた。

その時ぼくは思った。
葉子先生は、そしておそらく他のみんなも、まだ知らないんだと。
確かここから、駐車場の方へ100メートルほど戻った、芝生広場が向こう側に少し傾斜し始めている場所だったはずだ。辺りの芝草が真っ赤に染まり、『かつて人であったもの』がそこかしこに、幾つかに分断されて散乱していた。つまりそれが、風太郎先生が『ヒトデナシ』と格闘した末に辿ってしまった悲惨な末路(まつろ)だった‥‥と言うことを‥‥‥‥‥


「どうしたんだよ?ヒカリ‥‥」
ぼくが『風太郎先生の死』を、葉子先生に告げるべきかどうか考え込んでいると、その様子を不審に感じてかモリオが声を掛けてきた。
「ん‥いや、何でもない‥」ぼくは誤魔化す。「それより‥‥、おまえたちと葉子先生は、どうして木に登る羽目になったんだ?」
「どこへ逃げたらいいか‥‥分からなくなってしまったのよ‥」答えたのはツジウラ ソノだった。


葉子先生が、逃げ惑っていた子供たちを引き連れて林の前まで辿り着いた時、すでに林の中に身を潜めていた数人の生徒が先生の名を呼びながら合流して来た。
「これで全員?」葉子先生はそこに集(つど)った十数名の一人一人の体に怪我が無いことを確認しながら、質問した。「他の子たちはどこに行ったか、誰か知らない?」
それぞれが顔を見合わせ、首を振った。
「‥‥みんな、ばらばらに逃げて行きました」「あっちに走って行った子もいたし、そっちに逃げてく子も見ました‥」と、芝生広場のあちこちを指差しながら、比較的冷静でいた二人が答えた。ミドリとフタハだった。彼女たちはこの時点から葉子先生と行動を共にすることになる。
葉子先生は、さっき『ヒトデナシ』の手にかかる寸前に何とか逃げ果(おお)せた草口ミワと高木セナの姿が、今この場にいないことに考えが及(およ)んだ。「あのふたり、どこへいったのかしら‥‥。他のみんなも、広場のどこかにちゃんと隠れてくれていると‥いいんだけれど‥‥‥‥」と、少し震える声で呟き、空を覆った雲に春の陽射しをすっかり遮られて輝きを失ってしまった芝生広場に、心配そうな目を向けた。
誰の姿も確認できない。しかし葉子先生の心配と不安を本当に掻き立てたのは、不気味な『ヒトデナシ』の姿が風太郎先生と一緒にどこかへ消え失せていて、やはり確認できないことだった。
ここにいて良いはずがない‥‥。草口ミワが、警察と救急への通報に成功していたとしても、ここでこのまま、その助けが来るのを待ってはいられない‥‥と、葉子先生は考えた。

「ここにいるみんなだけでも、林の中の道を使って今すぐに避難しましょう」葉子先生は決断した。
逆らう子など誰もいなかった。全員が黙って従った。
元々ほとんどが日陰だった林の中の道だが、空が曇ったせいでその暗さは陰鬱(いんうつ)なものに変化していた。子供たちは来た時とは違って、肩を寄せあう様に密集して、足早に歩き出した。葉子先生はそんな彼らの最後尾を、周囲への一切の油断を排除しながら、ピタリと離れずついて行った。

空気を真っ二つに裂く様な突然の悲鳴と、地べたを引き摺る様な泣き声が続けざまに聞こえてきたのは、一同が前に進むことだけに意識を集中し始めた矢先のことだった。
そしてそれは間違いなく、一同がすでに背を向け後にして来た、芝生広場から聞こえていた。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (154)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十九

「風太郎先生が『ヒトデナシ』に飛びついて背後から両手を首に回した瞬間、シュッと音がして霧みたいなものが立ち昇ったの」と、葉子先生はやや興奮気味にその時の様子を振り返った。
どうやら風太郎先生は、小さめのスプレー缶らしきものを手に握っていて、それを『ヒトデナシ』の顔目掛けて噴射したらしい‥‥‥‥

「例えば‥防犯用の催涙スプレーだったのかもしれない。風太郎先生はそれを目一杯、『ヒトデナシ』の顔に浴びせ続けたのよ」
風太郎先生がなぜ催涙スプレー?を所持していたかは不明だが、効果はてき面だった。蛇に睨まれた蛙のごとく動けなくなっていた草口ミワと高木セナに振り下ろされようとしていた『ヒトデナシ』の刃物を持った手が止まり、力が抜けた様にだらんと下がっていった。体が小刻みに震え、上半身を苦し気にのけ反らせるのが分かった。風太郎先生は手を緩めない。スプレー缶をさらに『ヒトデナシ』の顔に近づけて浴びせ続け、そして叫んだ。「二人とも!逃げろ!逃げるんだ!」
風太郎先生の呼びかけに草口ミワは我に返った。傍らに座り込んでいた高木セナの腕を思い切り握って引っ張り起こし、引きずる様にして駆け出した。その時、託されていた葉子先生の携帯電話を芝草の上に放り出しておくのを草口ミワは忘れなかった。

やや離れた後方から成り行きの全てを目撃していた葉子先生は、草口ミワと高木セナが難を逃れたことに安堵し、危険を顧(かえり)みない風太郎先生の行動に深く感謝した。
ギィイキィキィイイィィィィ--
何かが軋(きし)む様な、この世のものとは思えない奇妙な音が聞こえた。どうやら『ヒトデナシ』のうめき声らしかった。明らかにもがき苦しんでいて、組みついて離れない風太郎先生を振り払おうとしている。一瞬の見間違いかもしれないが葉子先生の目には、『ヒトデナシ』の頭と上半身の一部が凸凹(でこぼこ)に大きく膨らんでぼやけていき、後ろの景色が透けて見えた気がした。
「先生!葉子先生!」そんな『ヒトデナシ』となおも格闘中の風太郎先生が、今度は葉子先生に向かって大声を張り上げた。「先生も早く!逃げ遅れてる子たちを連れて早く逃げて!」
「わっ、わかった」風太郎先生には聞こえずとも、葉子先生の口から思わず返答の言葉が漏れた。
受けた背中の傷の痛みを堪(こら)えて葉子先生は立ち上がり、庇(かば)っていた子たちを両腕で抱える様にして、その場からできうる限り離れようと走り出した。

すっかり厚い雲に覆い尽くされた空の下、葉子先生は懸命に走った。背中の傷から出血している感覚をありありと感じながらも、子供たちを連れてひたすら走り続けた。風太郎先生が『ヒトデナシ』の足を止めている現場を大きく迂回し、迷わず芝生広場の端にある林を目指していた。そこまで行けば少なくとも立ち並ぶ樹々の中に身を隠せるし、ここ(芝生広場)に来る際に歩いて来た林の中の道を逆に辿れば、何とか逃げ果(おお)せるのではないかと考えたのだ。
葉子先生は林が目前に迫るまで走り続け、その間一切後ろは振り向かなかった。林が近づくにつれ、付近には逃げ惑(まど)った様子の子供たちの姿が幾人も確認できた。
「あなたたち、早く林の中に!木の陰に隠れなさい!」葉子先生は目に留まった全員に、片っ端から声を掛けていった。

顔を強張(こわば)らせながら心細そうに集まって来た子供たちを引き連れ、やっとの思いで林に到着した葉子先生はここで初めて、彼女が後にして来た広場の方を振り返り、その様子を窺(うかが)った。
しかし芝生広場を端から端まで見渡してみても、『ヒトデナシ』の不気味な陰のごとき輪郭も、その体に組みついた風太郎先生の勇ましい姿も、あって然(しか)るべき格闘の痕跡すらも‥‥‥、結局何も見つけることはできなかった。

次回へ続く