悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (157)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その四十二

「葉子先生と‥フタハやミドリがそんなことになってる時、たぶん俺たちは林の中の道をとっくに逃げていて、後から来てる子たちよりもずっと先の方にいた‥‥‥」そう語り出したのはモリオだった。

モリオとツジウラ ソノは、最初に『ヒトデナシ』が駐車場に現れて教頭先生に襲いかかった時、一番近くにいた。事態を把握して真っ先に逃げ出したのも彼らだった。
「葉子先生が『逃げて!逃げなさい!』て叫んだんで、二人で夢中で逃げたんだ」と、モリオ。ツジウラ ソノも「うん‥」と頷いた。「途中、広場に集まってたやつらにも、逃げろって声をかけながら必死で走った。気がついたら俺とツジウラ、他にタキとかアラタとか‥全部で男女八人だったか、林のすぐ前まで逃げて来ていた」

その時のそこに集まったみんなは明らかにパニック状態だったらしい。誰もがじっとしていることに耐えられなかった。だからアラタの、「このまま林の中の道を戻ろう!ここからできるだけ遠くへ逃げた方がいいに決まってる!」という呼びかけに、一も二もなく同意した。
「どうしていいかわからない時てのは、もっともらしいことを言うヤツと、やたら行動的なヤツについつい、ついて行くもんなんだよな‥」と、モリオは回想した。

林の中の道に入った。先頭は『やたら行動的なヤツ』のタキ、その傍らを『もっともらしいことを言うヤツ』のアラタが歩いた。首をすくめて互いに体を寄せ合った女子が三人、金魚のフンみたいにその後に続き、モリオとツジウラ ソノは背後に遠ざかって行く芝生広場を気に掛けながら、一番後ろを歩いた。
来る時に一度だけしか通ったことのない道ではあったが、一本道である。迷う心配は無かった。それぞれの頭の中は整理のつかない状態であっただろうが、それでもみんな、ただ黙々と歩いた。

二十分ほど歩いて‥先頭のタキが、「来る途中で休憩した菜の花畑が、そろそろ見えてくるはずだよな‥‥」と、ぼそりと言った。そんな時だった。彼らの前に黒い人影が現れたのは。

「えッ?」「おい!」「何?‥‥‥」
15、6メートル前方である。道の真ん中に立ちはだかる『陰の様な男の輪郭』に全員が気づき、思わず足を止めた。
「モリオ! もしかしてアイツ‥‥なのか?」アラタが、一番後ろにいるモリオに声を掛けた。駐車場で教頭先生を襲った犯人を目撃しているモリオに、確認を求めたのだ。
「‥‥まさか?? どうしてこんなところにいるんだよ?」モリオの声は震え、明らかに戸惑っていた。「駐車場からここまで、ものすごい近道でもあるのか?‥‥」それが答えだった。
「私にも‥‥、同じ人に見える」モリオのすぐ横にいたツジウラ ソノが念を押した。よくよく見てみると男の手には、やはり刃物の様なものが握られていた。
その場が凍りついて、男と対峙したそのまま、計り知れない感覚の時間が流れていった‥‥‥‥‥


「オレは‥行くぜ」
フリーズしていた世界をふたたび動かす様に、押し殺した声でタキが言った。「そうだよな?」傍らに立つアラタに同意を求める。
「ああ、もちろんだ。ここで引き返してたまるか‥」アラタが、同じ声のトーンで返答した。
「おい、やめとけ!相手は人殺しだぞ!」堪(たま)らずモリオが言った。女子三人が強く抱き合って、懸命に首を横に振った。
「オレたちだけでも‥行く」「見てろ。大人には負けない」タキとアラタの二人はそう言って、背を屈めて身構えた。
後ろで黙って二人を見ていたツジウラ ソノはその時、『彼らはこの状況を切り抜けるための策(さく)を、ちゃんと用意しているのだ』と直感的に思ったそうだ。

タキがアラタに目配せした。と次の瞬間、二人は揃って、まるで短距離走の始まりみたいなスタートダッシュを切った。
ダッ! ダタタタタタタタタァァ!!!
タキとアラタは、壁となって前方に立ちはだかる男の真正面目がけて、全力で駆け出して行った。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (156)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その四十一

林の中の道を歩いていた全員が足を止め、振り向き‥‥、怯えながら聞き耳を立てていた。
すでに後にして来た芝生広場から聞こえて来た悲鳴と泣き声は、かなり切羽詰まったものとして彼らの耳に響いた。

集団の最後尾、つまり芝生広場に一番近い道の途上にいた葉子先生が、みんなを制する様に声を掛けた。「あなたたちは構わず、このまま進みなさい。立ち止まらず少しでもこの場所から遠くへ、できるだけ遠くへ離れるの。いい?」
葉子先生の口調には有無を言わせぬものがあった。全員が引きつった表情でコクッと頷(うなず)いていた。
「さあ、行って!」その言葉を合図に、全員がふたたび動き始めた。『進む道の先』と『その場に残ろうとしている葉子先生の姿』に、交互に何度も目を向けて、明らかに戸惑いながら‥‥‥‥‥


「葉子先生は私たちに背を向けて、広場の方に走って行った。遠ざかって行く先生の服の背中のあちこちが切れてて、真っ赤な血が滲(にじ)んでた‥‥」フタハがその時のことを振り返る。「途中でフラッとよろけて膝をついた。私たまらなくなって、隣を歩いていたミドリに言ったの。あんな葉子先生を放っておけないって‥」
ミドリも「‥うん」と深く頷いて、結局フタハとミドリのふたりは葉子先生の手助けをしようと、戻ることを決断したのだそうだ。
もちろん葉子先生は、戻って来たフタハとミドリを本気で叱りつけたが、自分を助けたいと申し出ているふたりと、その場で押し問答している時間の余裕など無かった。結局三人連れ立って、急いで芝生広場に飛び出していった。

あァああァーァん!
泣き声がまだ聞こえていた。女の子の泣き声だが、誰のものかは特定できない。
「どこ?どこよ?」葉子先生は芝生広場を見渡し、どこから聞こえてくるかだけでも確かめようとした。
「先生、あっち!」「うん!あっちから聞こえてる!」フタハとミドリが同時に指を差す。そこは広場の南側、延々と芝の草原(くさはら)が続いているずっと先の方だった。しかし、人影らしきものは見当たらない。
「何も見えない‥」焦る葉子先生。『芝生広場』と言っても、平坦な原っぱがずっと広がっているわけではない。大体の場所が多かれ少なかれどちらかの方向に傾斜していて、小さな丘みたいな出っ張りもあれば、窪地(くぼち)の様にへこんだ所もあった。それらの起伏に身を伏せてしまえば、小学生の体である、完全に隠れて見えなくなるのも仕方がない。

あがッ・‥‥
聞こえていた泣き声が突然途切れた。
「何!どうしたの?何かされた?」葉子先生が悲痛な声で叫んだ。
「あっ!あそこ見て!」ミドリが異変に気づいた。
確かに今まで泣き声が聞こえていた方向の辺りだ。ぱっと煙の様に草原から舞い上がったものがある。幸いにしてそれは『血しぶき』ではなかったが、見る見るうちに拡散し、今度は収縮、風に吹かれたみたいに渦を巻いた。よくよく目を凝らして見ると、小さな点の集合体が飛び回っているのだと分かった。
「‥‥虫?」フタハがぼそりと言った。
集合体のおこぼれみたいな小さな点の二つ三つが、三人の立っている方に流れて来た。
「バッタ‥だ」葉子先生が気が抜けた様な口調で呟いた。確かにそれらは、草原には珍しくもないバッタだった。

うわあああァァー!
三人が、近づいて来たバッタに気を取られていると、さっきとはまったく別の広場南東の方向から、新たな叫び声が響いて来た。やはり姿は確認できなかったが、男の子の声だ。

かっ!かんべんして!かんべんして!かんべんしておくれ!
今にも泣き出しそうな懇願(こんがん)の叫びが、呪文の様に続いた。
そんな悲痛な声に矢も楯もたまらず、聞こえてくる方向に身を乗り出すミドリとフタハ。
「待って!」葉子先生がふたりの前に素早く手を広げ、彼女たちの動きを制した。

「先生!」ミドリとフタハは、なぜ止めるのかと言いたげに、葉子先生の顔を見た。
「ふたりとも落ち着いて。落ち着いてあの声を聞きなさい‥」
「?」「??‥」

「今時の子どもが‥『かんべんしておくれ』なんて言うかしら?」
葉子先生のその言葉に、ミドリとフタハはハッとして我に返った。

「私たち、もしかしたら『ヒトデナシ』に誘い出されてるのかも‥‥‥知れない」

次回へ続く