悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (187)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その七十二

記憶の中にすっかり埋もれていた、とうに過ぎ去った日常のひとコマ‥‥‥

その場の思いつきで、娘や妻をちょっとでも愉快にさせて、目の前にあった不安な現実を遣り過ごしたかっただけの他愛(たあい)もない会話だった。
それが、『ぼくが今 ここにこうしている理由』であるとは、俄(にわ)かに信じ難(がた)かった。

「きみは‥『夢』の内容以外に、自分が大人になってるみたいな『別の記憶』はあるかい? 例えば、仕事をしてたり結婚してたり、子供を産んで育児をしてたりとか‥‥」
ぼくは高木セナに、そう切り出してみた。彼女がもしかしたら本当に、『小学生になりすました大人』なのかどうか、確かめてみたかったのだ。
高木セナは真剣な顔で考えて、「そんなの‥ ないよ」と首を小刻みに何回も振った。
その様子を見て、ぼくには、彼女が嘘をついてるとはどうしても思えなかった。

「やっぱりツジウラか‥‥。君の言う通り、ツジウラ ソノが何者なのか、ぼくも確かめたくなった。実際、彼女が二年の新学期になって転校して来たこと自体も、ぼくはちゃんと知らなかったんだ‥」そう言って、ぼくは辺りに目を泳がせた。
「‥‥‥‥‥‥‥」高木セナがそんなぼくを、黙って見つめていた。

「ヒカリくんは、どうなの?」
「え?」
「ヒカリくんは『別の記憶』はないの? 自分が大人になってる記憶、ソラという女の子のお父さんだった記憶‥」
「あ‥‥」虚(きょ)を突かれた感覚だった。ぼくは押し黙って、高木セナを見つめ直すしかなかった。

ある。自分に問い直す必要はない。ぼくは大人で、ソラの父親だ。
だが、高木セナの突然で当然の問いかけに、まるで『我に返った』みたいに、自分を見つめ直す必要を感じた。この遠足の間中ぼくは、『自分がなぜここにいて、なぜ小学二年生の姿に戻っているのか』を不思議に思いつつ、どうでもいいことの様にやり過ごしてここまで来てしまったのだ。

いったい‥ ここはどういう場所で‥ ぼくは‥ どうなってるんだ???

ぼくはこれ以上この疑問を、そのままにしておくわけにはいかないと、強く感じた。強く感じて、自分に問うた。問い続けた。
「う‥ うゥ‥ッ‥」
「ヒカリくん? どうしたの?ヒカリくん!」
高木セナが慌てて駆け寄って来た。気がつけばぼくは、両手で頭を抱え、芝生の上に膝をついていた。

「ごめん。ひどい‥頭痛がするんだ」
それは確かに頭痛であったが、ただの頭痛ではなかった。頭の中に、いろんな感情が目一杯ギュウギュウに詰め込まれた領域があって、ドロドロミシリと混濁(こんだく)しながら今にも破裂しそうに振動していた。しかしその中心部には、何物も寄せつけず一切の侵入を許さない空白の領域が存在していて、その二つの領域の境界が、互いの凄(すさ)まじい圧力で鬩(せめ)ぎ合っていた。
だだの頭痛では‥ なかった‥‥‥‥

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (186)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その七十一

「よし!ソラがそんなに遠足に行きたいんなら、行こうじゃないか。とうさんとかあさんと、ソラの三人で行こう」

高木セナが、見た『夢』の内容を詳しく話すまで、そんなやり取りがあったことをぼくはすっかり忘れていた。あまりに他愛もない会話だったので、顧(かえり)みることもなかったのだ。思い出してみると、遠足に行こうと最初に話を切り出したのは紛れもなく、ぼく自身であった。
「ソラが元気で最高に天気が良い日‥、たくさんお菓子を買って、かあさんにお弁当用意してもらって、みんなで出かけよう」
ぼくがそう言うと、ソラは「ええェ?」と不満の声をもらし、こう続けた。
「とうさん、それじゃあダメだよ。それは『えんそく』じゃあなくて、おうちでいく『ピクニック』でしょ?」
「フフッ 確かにそうね」娘が正しいと、妻のセナが笑った。
「だったら、どういうのが遠足だい?」
「えんそくは、おないどしのおともだちみんなで、いくものでしょ」ソラは当然のことの様にさらりと言ってのけた。
「フフフッ そうね。そうよね」セナはそんなやり取りが可笑(おか)しいらしい。「みんなで一緒に歩いて‥、みんなで同じ景色を見て‥、そしてみんなで輪になって座って、お弁当食べるんだものねえ」ソラの肩を持って、いかにも楽しげな解説を付け加えた。
「うーむ‥‥‥」僕は、別段辛くも悔しくも無かったのだが、わざと悔しそうな顔をして、懸命に頭をひねっている振りをした。本当は、妻と娘に何か言ってやって、その一言で形勢を逆転させて二人を困らせてやろうと考えていたのだ。

「よし、こうしよう。とうさんとかあさんは、ソラと同い年の子供になる。他におじいちゃんおばあちゃんと、カオリおばさんとか、横浜のジンちゃんとかにも、いっぱいいっぱい声をかけて、子供になって参加してもらうんだ」
「ええェ? 何よそれ? 何を言い出すかと思ったら、この人は」セナが呆れた声を上げた。
ソラの方は、目をまん丸にしてぼくを見て、こう言った。「とうさん へんなこといってる。へんだよ、とうさん。そんなことできるわけないよ。おとなが、ソラとおんなじこどもには、なれないよ」

「なれるさ」
ぼくはソラに、自分でもびっくりするほど自信に満ちた言葉を返していた。少し意地悪かも知れないが、幼いソラを煙(けむ)に巻いてしまおうと思ったのだ。
「だって大人はみんな、子供を何年もやってきてから大人になったんだ。だから、いろんなこと思い出せばいつだって、子供に帰れるんだよ」

ソラはきょとんとした。きょとんとしてセナの方を向き、「‥ほんと?」と聞いた。
「とうさんたら‥‥‥」セナは呆れていた。でも、聞いているソラのために、話をうやむやにしなかった。「確かに‥‥、子供に戻ったみたいな‥そんな気持ちになる時もあるけど‥‥‥」そう言い置いて、「思い出せることもいっぱいあるけど、忘れてしまった記憶もあって‥‥、かあさんが子供になれるとしても、小学生までかなあ?」と、困りながらもぼくの提案に少しだけ乗っかって来た。
ぼくは、どこか照れ臭い笑いを口元に浮かべながら、そんな二人を眺めていた。

「ソラ‥は、『そうぞうりょく』でおとなになれないかなあ? おとなはむりでも、ちょっとおおきいだけの『しょうがくせい』なら、なれるかもしれないよね」突然、ソラが声を弾ませて言った。
「かあさんが、『しょうがくせい』までしかなれないんだったら、ソラがそのぶん、『そうぞうりょく』をつかっておおきくなって、『しょうがくせい』になるよ。そしたらソラとかあさんは『おないどし』になって、いっしょにえんそくにいける」

ぼくは驚いていた。ソラはぼくの馬鹿げた話に、楽しそうに乗っかっている。否、ただ乗っかっている振りをしているのだろうか?
ソラは頭の良い子だ。時々、親に気を遣い、ちょっとしたお芝居もする。
その時のソラが実際『本気』だったのか、あるいは『振り』をしていただけなのかは‥‥、ぼくには区別がつかなかった‥‥‥‥

次回へ続く