悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (262)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百四十七

「 ヒカリさん!その右手!? 右手が大変よ!! 」

「 えっ? 」
傍(そば)で見ていたセナの悲鳴みたいな声に、ぼくは瞑(つむ)っていた両目を思わず見開いていた。
そして真っ先にその視界に入ったのは、目の前の板壁(いたかべ)とぼくの右手‥‥‥「 え‥?? 」

そこに見えた光景は、摘もうとしていた『赤い音符の花』の描かれた板壁と、その少し右横辺りの板壁の前で、前腕(ぜんわん)の三分の一ほどを残して‥その先が切断された様にぷっつりと途切れている‥ぼくの右手だった‥‥。

「 大丈夫??ヒカリさん!? 大丈夫なの!?? 」 セナが半泣きの声で聞いて来た。
ぼくは彼女にすぐには返答せず、自分の目の前にあるこの光景が、一体何を意味しているのか‥‥しばらく考えていた。

痛みはまるで無かった。消えている指や腕の感覚も、ちゃんと残っている気がする‥‥‥。
「 だっ‥ 大丈夫。落ち着いて。 手は、切れたり千切れたりしているわけでは無さそうだ 」
ぼくは、慌(あわ)てているセナを落ち着かせるため、そして何よりも自分の平静さを失わないために、彼女と自分自身に向かってそう言った。
「だったら、その右腕の無くなっているみたいに見える先の方は、一体どうなってるの?? 」

「 ‥‥‥たぶんこの壁板を‥ 通り抜けてるんだと‥ 思う‥‥ 」 ぼくは、やはり平然とした口調で答えた。しかしその考えは、たった今頭の中に閃(ひらめ)いたばかりの思いつきで、実は何の根拠も無いものだった。
セナが近づいて来た。右手はもちろん、それ以外の他の部分も動かすことを控えているぼくの体の右側から回り込んで、板壁に接する形で途切れているぼくの右手を、身を乗り出す様にしてまじまじと観察した。

「 本当だ‥ 腕が壁の板にきれいに刺さって、その先が向こう側へ消えている感じ‥に見える 」
「 ああ‥ その通りだ 」 セナの言葉に、ぼくは相槌を打った。
「 だったら‥ 」 セナは小さく首を捻(ひね)る。 「 だったら、ヒカリさん‥ 右手を押すか引くか、どちらかに動かしてみたら‥どうなるかしら? 」 そう言って、ぼくの目を覗き込む。
「 ‥ ‥ああ そうだ‥よね 」 すでにそのことは、ぼくも考えている。考えてはいたのだが、消えかかった自分の前腕に痛みも違和感も、刺さっているのならそれなりの圧迫感みたいなものも‥、何も感じていないのがかえって気味が悪かったのだ‥‥‥‥

「 やってみる 」 ぼくはその一言を発して踏ん切りをつけ、早速右手をゆっくりと引き寄せ始めた。
引いて‥、引いて‥、少しずつ引いて‥、自分の感覚では前腕の半分の長さほど引き寄せたつもりだったのだが‥‥、驚いたことに途中で途切れている腕の部分の位置も、接している板壁からの距離も、まったく変化を見せなかったのだ。言わばぼくの動作が、すっかり空回りをしている感覚だった。

全身から‥ 冷や汗が噴き出すのが分かった‥‥‥‥

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (261)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百四十六

内なるぼくの導き‥なのだろうか?
歌は、ぼくを誘っている‥と思った。

「 手折(たお)りて行(ゆ)‥かん‥ 野なかの薔薇(ばら)‥‥ ‥ 」
ぼくはそう呟(つぶや)いて、すっと右手を被せるようにして触れていた‥壁の『赤い音符』を、指と指の隙間から眺めた。
明らかにシューベルト作曲の譜面をなぞって配置されていた『赤い音符』の一番おしりの二音。たっぷり血の付いた『切断した腕のスタンプ』で押された様子の、厚みのある血の塊(かたまり)だった。そしてその二つの血の塊の部分部分から、重力に抗しきれずに壁伝いに垂れて行った赤い筋が二本。いずれも、血はすでに乾ききっていて、贅沢に使われた油絵具のごとく、壁にしっかりとへばりついていた。
音符が花なら、垂れて行った筋はまるで花の茎(くき)だった。『二輪の赤い薔薇』が、板の壁から浮き出しているみたいにほくには見えた。

本当にこの花を‥‥ 摘(つ)める‥かも 知れない‥‥

それは、予感めいた感覚だった。
「 ‥手折りて行かん‥‥ 」ぼくはもう一度そう呟くと、壁の『赤い音符の花』に被せていた右手を、ゆっくり‥ゆっくり‥と下げて行き、『筋を引いている花の茎』のすぐ横で静止させた。
「 手折りて‥行かん‥ 」ぼくは、覚悟を決めたみたいに目を瞑(つむ)る。
「 手折りて‥行かん」そしてそっと、指を『花の茎』に回り込ませるイメージで、あるはずの壁板を意識すること無く、指を前方にやはりゆっくりと差し込んで行った‥‥‥‥

「 ‥‥‥‥‥‥‥‥ 」
すでに右手指先を十数センチ前方へ、突き出している‥はずである。しかしここまで動かしても、指先が壁板(かべいた)に触れてはね返される感覚が‥‥一向(いっこう)にやって来なかった。
この世界、理にかなっていない現象が起こり得(う)ることなど、最初から織り込み済で取った行動だった。ここで包み込む様に指を内側に曲げて手前に引けば、あの血の筋でできた『花の茎』が『赤い音符の花』共々、すっぽりと右手の中に収まって取れてしまいそうな気がした。
堪(たま)らず、今すぐ目を見開いて一体どうなっているのかを全部確かめたい衝動に駆(か)られたが、それをやってしまったら、こういう時は往々(おうおう)にして目を開けた途端(とたん)に全てが霧散霧消(むさんむしょう)して、すっかり台無しになってしまうに違いないという馬鹿げた思い込みもあった。

「 ‥‥‥‥‥‥‥‥ 」
手を伸ばした辺りの空間が、歪(ゆが)みでもしているのか? それとも‥‥‥‥
ぼくは、目を開けるのを我慢できているうちに、だったらいっそのこと、右手をもっと前へ前へと突き出し続けて、どれくらいで指先が壁板に当たるかを試してみるのも面白いのではないかと、奇妙なことを考え始めていた。
そしてぼくは、それを実行に移した。取り敢えず、指先が何かに触れるまで少しずつ、前方へ突き出し続けた‥‥‥‥‥


「 ヒ!ヒカリさん?! 」
と、その時突然、ぼくの後ろからセナの大声が響いた。
「 何??その右手! 右手があ!大変よ!! 」

「 えっ? 」
ぼくは思わずその声に、瞑っていた両目を見開いていた。

次回へ続く