ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (33)

第五話「月の石」 その五
日本万国博覧会(大阪万博) 二日目。
朝、入場した時にはすでに会場内はたくさんの人でごった返していました。マップを頼りに歩き出します。「動く歩道(水平型のエスカレーター)」に乗りました。高い所をモノレールが走っています。様々なコンセプトで建てられたパビリオンの中でひと際目を引いたのは、どういうわけか日本建築の七重塔(古河パビリオン)でした。昨日よりは冷静に場内を観察出来ています。
ようやく目当てのパビリオンに到着。その日最初に並んだのは「三菱未来館」でした。

「三菱未来館」は企業館の中で最も人気の高かったパビリオンで、先に修学旅行で体験済みの兄からのアドバイスも「あそこは観とけ」でした。
それに「未来」や「科学」などの言葉は子供の私にとっては魔法の呪文の様な響きをもっていて、否が応でも期待はふくらみます。

思っていたよりも早く待ち時間40分程で入館できました。
移動式の通路に乗り、薄暗い館内のいたる所に多面的に設置されたスクリーンに映し出される「未来世界」を観て回りました。
それらのひとつひとつが良く出来た特撮映像で、さらにちゃんとしたストーリーもあって、後で知った事ですが、当時の「東宝」の特撮スタッフ(制作は田中友幸,特技監督が円谷英二、音楽もなんと伊福部昭というゴジラ映画を世に送り出してきた方々)によって創られたものだったのです。

私が今でも覚えている一つは、こんなお話でした。
日本の南方海上に台風が発生し、発達しなっがら接近してきます。
報告を受けジェット戦闘機らしき機体が台風に向かって飛び立ち、台風の目に爆弾の様なものを投下するのです。
その効果か、台風は跡形も無く消滅していきました。

「そうか‥近い将来、台風は来なくなるんだ‥‥」
小学六年生の私は本気で信じてしまいました。
万博開会の日、「敦賀原子力発電所」の一号炉が営業運転を開始し、開会式の会場へ電気が送られました。
「科学万能の世の中」の到来を夢に見る事ができた時代だったのです。

次回へ続く

ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (32)

第五話「月の石」 その四
日本万国博覧会(大阪万博) 一日目。
「日立グループ館」の40mのエスカレーターで展望室に行き入館しましたが、メイン展示(フライトシミュレーター)は混雑していて観ることを諦め、近くの「みどり館」に並びました。
「みどり館」は360°のスクリーン映像体験ができるアストロラマが人気で、入れ替え制だったので何とか入館できました。
アストロラマは衝撃的でした。言わばプラネタリウムの様な大きなスクリーンに動くカラー映像が映し出されるわけで、今も鮮明に覚えているのは日光のいろは坂の様な場所を疾走する映像。前方から迫ってくるヘアピンカーブ、左右に飛び去っていく紅葉した樹々、振り向けばあっという間に遠ざかって見えなくなる景色。首を動かしながら夢中で観ていました。

「みどり館」を出るとすっかり日が暮れていて、会場内はライトアップされていました。
私はそれを眺めながら、この色とりどりの光の中にまだまだ沢山の未知の世界が隠れているんだと胸を高鳴らせました。

二日目は朝の開場から終日、見て回りました。
「三菱未来館」、「アメリカ館」「ソ連館」、「日本館」などを観覧しましたがそれを記していく前に、1970年に至るまでの日本と、日本を取り巻く国際情勢について振り返ってみたいと思います。

言うまでもなく「冷戦」は続いていました。ベトナム戦争は泥沼化しアメリカでは反戦の声が高まりをみせていきます。前線補給基地と化した沖縄はまだ日本にあらず、返還が叶うのは1972年の事です。
中国はと言うと、日中国交正常化がやはり1972年なので万博は不参加、台湾が「中華民国」の名で参加しています。
数年後に消滅する「南ベトナム」も参加、特筆すべきは「ベルリンの壁未だ健在」の「西ドイツ」と「東ドイツ」が合同で参加していた事でしょうか。

中国で思い出すのは60年代後半に度々行われていた核実験です。
実験直後日本で雨が降ると、「放射能が混ざっているから濡れると禿げるぞ」と冗談めかして言ったものですが、黄砂やpm2.5の飛来を考えると当時が少し怖くなります。

最後に、1970年は日本にとっては「日米安保条約」の自動延長の年で、いわゆる「70年安保闘争」は数年前から存在していました。だだ「60年安保」の景色とはかなり異なり、学生(各大学の全共闘など)が中心の「大学紛争」に明け暮れた68年、69年であった様に記憶しています。

万博開催中、「太陽の塔」が一人の学生運動家に占拠される騒ぎがありましたが、大事には至りませんでした。しかし「よど号ハイジャック事件」が起きたのは万博が開幕して間もなくの事だったのです。

次回へ続く