悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (219)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百四

「‥また 独り言‥‥‥」 
「え?‥」

妻はキッチンで、遅い夕食の準備をしていた。
僕はというと、ダイニングのソファーに腰かけ、見るとはなしに、正面にあるテレビの画面へと顔を向けていた。テレビはいつからか電源が入っていて、低めの音量でその日の出来事を矢継ぎ早に報じていた。
「え?‥ どうしたって?」
妻の言葉を聞き逃した僕はキッチンに首を向け、カウンターの向こうで背中を向けたまま手を動かしている妻に聞き直した。

「また、独り言を言ってるって‥ 言ったの」
「えっ 僕がか?」 まったく身に覚えのない僕は、そう返すしかなかった。
ふぅ‥と聞こえるため息を漏らして、妻が振り返った。彼女の眉間には、皺(しわ)が寄せられていた。
「何だか‥すごく汚い言葉も聞こえたけど‥‥ 覚えてないの?」
「あっ ああ‥‥‥」 僕は惚(とぼ)けたわけではない。本当に、身に覚えがなかったのだ。
妻の顔が、呆(あき)れ顔に変わって、困ったわねといった様子でまたため息をついた。

「‥ソラが今もお家(うち)にいて‥ 傍で聞いてるかも知れないって‥‥ あなたが言ったのよ」妻が、テレビの低い音量に負けてしまいそうな、思いつめた様な囁(ささや)き声で言った。「だから、ソラが悲しむようなことは‥‥口にしないでちょうだい」
妻のその言葉は、アナウンサーの声を掻(か)い潜(くぐ)って、一言一句が僕の胸に突き刺さった。

「‥‥‥‥わ‥かったよ 気をつける‥」僕は答えた。そう答えるしかなかった。正直僕には全く自覚がなかったのだ。
実際、近頃独り言が増えてきているのは認める。『ソラへの想い』が四六時中(しろくじちゅう)頭の中にあるせいか、ソラを連想したり関係がありそうな事柄に出くわすと、ソラの名をぼそりと呼んでしまった。何度も何度も繰り返してしまうこともあって、そんな時は酷く悲しくはあっても、言葉を口に出してしまったことははっきりと自覚はしていた。
だが、妻が僕を非難している理由は、僕が時おり『すごく汚い言葉』‥おそらく『聞くに堪えない言葉』を発しているから‥らしいのだ。

僕はいったい何を口走ってしまったのかと、自分に問い質してみる。しかし、やはり何の心当たりも無い。さっきはぼんやりと、ただ、テレビを観ていたのだが‥‥‥‥‥

僕はテレビの画面に目を戻した。
ずっと続いていたニュース番組が終わろうとしていた。アナウンサーが、この時間伝えて来たニュースを、並んだ見出しをなぞりながら簡単に復唱する。トップは、不正献金問題で辞職した衆議院議員ポストをめぐる補欠選挙の直近の動向。次は、最近各地で頻発している地震と、来たるべき南海トラフ巨大地震との関連性についての独自取材による推論。そしてその次は‥、とある病院で起きた重大な医療ミス‥の‥‥‥‥‥‥

お‥まえら‥ みんな‥‥ くたばっち‥まえ!

その時、何の前触れもなく‥‥、僕の耳元で誰かの声が‥‥聞こえた。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (218)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百三

全身から力が抜けていき、ただ立っているのがやっとといった茫然自失の‥‥、そんな喪失感。
気がつけばさざ波のごとく始まって、やがてはすべてをのみ込む大波となって一気に押し寄せて来る‥絞めつける様な悲しみ。
僕と妻は、『やはり自分たちは、大切なものを失ってしまったのだ‥‥』と途方に暮れ、二人そろって涙を流しながら、その場に座り込んでしまうのだった‥‥‥‥‥

何処へも踏み出せないし、何も為せない。ただただ疲弊していくだけの毎日が、過ぎ去って行く。
当然、このままではいけないと分かっていて、『何とかしなければ‥』とは考えるが、『何とかしようとして、何になる?』とか『何とかしたなら、娘が生き返ってくるのか?』などと顔を背けてしまう。
人は言う。「亡くなった娘さんのためにも、しっかりしないでどうするんですか」「この先の人生はまだまだ長いのです。新しい生きがい、新しい幸せがきっと見つかります」‥と。
しかし、妻はともかく、僕の中には、ソラの形をした『ソラの空白』が歴然と存在していた。そして、その空白が埋まらない限り、今のこの状態は僕が死ぬまで続いていくだろうという事は分かっていた。的確なカウンセラーの言葉や厚い信仰が、その空白を埋める方法を指し示してくれるかもしれないと時々考えたりはしたが、結局僕はそれを望まないでいる。
なぜなら僕は、だんだんとその空白を、『ソラの存在』と等価のものとして、大切にしようと考え始めていたからだ。たとえそれが、自分のこれからの残された人生を、棒に振ってしまう結果になったとしてもだ‥‥‥‥‥

ただ、妻には、僕と同じ『まね』はしてほしくはない。彼女には、強くなって今を乗り越え、いつか心安らぐ時を手に入れてほしいと願っている。そのためには、どんなことでもするつもりだ。

娘の死後の‥『ソラを失ってしまったという自覚』が、自分の心の真ん中に『ソラの空白』を出現させたものであろうか‥‥。そんな『ソラの空白』を、この先損ねることなく、『ソラの空白』とまるで心中でもするが如(ごと)き覚悟を決めた僕だったが‥‥、いつしかそれがまったくの予期せぬ感情を呼び起こしていくきっかけになっていこうとは‥‥、僕自身も『その時』まで気づかなかった‥‥‥‥‥‥

次回へ続く