悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (223)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百八

「セナ?! セナッ セナ!!」

ぼくは、高木セナの体が地面に倒れる寸前に何とか彼女の上半身を支え、抱え込んだ。
「セナ!‥」
考えてみれば、他人がいる場所で、妻のことを名前で呼んだのは初めてだったと思う。他人の前だけではなくて、娘のソラの前でも『かあさん』と呼ぶことにしていて、彼女を名前で呼んだことはおそらく無かったはずだ。
自分が今回、この『小学二年生の遠足』に参加してるのを自覚してからも、他のクラスメート達を意識して、セナのことは『高木セナ』と旧姓のままのフルネームで呼ぶようにしていた‥。

「セナ‥‥ 」
ぼくは高木セナの背中から邪魔になるリュックを外し、彼女を仰向けにしてぼくの膝枕(ひざまくら)に寝かせつけた。そして声を掛けながら、彼女の少し青ざめた顔を被(かぶ)さる様にしてまじまじと見つめた。
「セナ?‥ 」
彼女は意外にも平穏な顔をしていて、少し安心したついでに、こんな至近距離から妻の顔をまじまじと見つめるのは一体‥いつ以来だろうか?‥と思った。
「セナ‥‥ 」
俯(うつむ)いたまま見つめていた両目に、いつの間にか涙が溜(た)まっていた。彼女の薄っすらと開いたままの目や長いまつ毛が、滲(にじ)んでぼやけていった‥‥‥

「ごぎゅぐごぐ‥ がぎばどうごじいばじだ‥‥ 」
再び、『摩擦音』みたいな言葉が聞こえて来た。ぼくは、目に溜まった涙を振り払う様に、風太郎先生の首を仰ぎ見た。
ギュシュッッ‥ 何度目かの奇妙な音が漏れ、風太郎先生の首がまたしても回転し始めた。ゆっくりゆっくり百八十度回転して‥胴体と同じ向きに、言わば『正位置・正方向』に戻った。
ぼくは呆気(あっけ)に取られてその様子を眺めていたが、動作の最中の首の付け根周辺に、どす黒いものが見え隠れしながら蠢(うごめ)いていたのを見逃さなかった。

首が正位置・正方向に戻り、完全な後ろ姿となった風太郎先生は、『これで用が済んだ』とばかりに、体が正面を向いている直線通路前方へと歩き出し、そして遠ざかって行った。

「‥‥‥‥いま、もしかして‥」 風太郎先生を見送ったぼくは呟いた。「‥ありがとう‥ございましたと‥‥、言ったのか?」
たまたまそう聞こえただけなのかも知れないが、風太郎先生が発した「がぎばどうごじいばじだ‥‥」は、ぼくの耳にはどこか‥‥、「ありがとうございました‥‥」と響いた。

もし、それが空耳でなかったとしたら‥‥、風太郎先生はなぜぼくに、感謝の言葉を残したのだろう??‥‥‥‥‥

「はっ!」
ぼくは突然、高木セナが気絶する直前に漏らした言葉を思い出した。その時は意味不明で、危うく忘れかけていたが‥‥、彼女は確か「‥わ‥ わかせんせ‥い‥‥」と言ったのだ。
ズキン!!
その時、頭に強い痛みが走った。何かを思い出そうとして幾度か繰り返された、例の頭痛の前兆だ。
ズキン!!
頭を抱えそうになった。思い出さなきゃ治(おさ)まるはずだ。
ズキリ!!
否(いや)!そんなわけにはいかない!思い出さないと、『この先』へは進めない!
セナが口にした『呼びかけ』に、ぼく自身確かに聞き覚えがあったのだ!
ズキズキン!!
「わか‥ッ 若先生!」 走る痛みに耐えて叫んだ。 「イケノハタミナミ病院の若先生!!」

やっとの思いで絞り出した記憶は、学校の教師ではなくて‥‥ 病院の医者を指す呼称‥‥だった。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (222)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百七

もともと‥‥胴体に乗っかっていただけの首だったのだ。だから首の付け根から上の部分だけが根無し草の様に百八十度回転し‥‥こちらを向いたのだ。ただそれだけの‥ことである‥‥‥‥‥


巨大迷路の長めの直線通路だった。
風太郎先生の後をつけるべく分岐通路から飛び出したぼくと高木セナだったが、先生はすでにぼく達の存在に気づいていて、通路の先で背中を向けて立ち止まったまま、ぼく達二人が追いつくのを待っていた。勢い込んでいたぼくと高木セナは、立ちはだかる風太郎先生の後ろ姿に仰天し、凍りついたみたいに立ち止まった。

「ふ‥ゥ」 ゴクリ‥ 「風太郎‥ 先生‥‥」
ぼくは、唾(つば)を飲み込んでから、やっとの思いで声を絞り出した。
だが、こちらに背を向けたままの風太郎先生からは反応はない。
「‥せっ 先生?」 今度は上擦った調子で、高木セナが声をかける。
しかしやはり、しばらく待ってみても、先生からは何の返答もなかった。

ヒクッ‥ ミシリ‥
その時である。奇妙な音が微(かす)かに漏れ、通常あってはならない現象が起こった。
クチャッ‥‥
両肩と背中はそのまま微動だにせず、風太郎先生の首だけがゆっくりと回り、こちらを向いたのだ。
ぼくは、思わず上体をのけ反らせていた。高木セナはと言うと、眼球が飛び出んばかりに両目を見開き、棒立ちになっていた。
ピチャッ‥ とやはり音がして、今度は首にある口元が緩(ゆる)んだ。そして唐突に、パクパクと引きつったみたいに動き出し、漏れ聞こえていたものとはまったく違う『波動』と『振動数』の音が、そこから響いて来た。

「うじょう‥しんな‥ ごぎたいば‥‥ うがべじ‥さぜぜ ぐ ぎだだぎまが‥じだ‥‥」

それは、『言葉』だった‥‥のだろうか??
喋っていると言うより‥、幾(いく)種類かの違う『摩擦音』が、抑揚を意識しながら組み合わされた旋律的な連なり。例えるなら、チェロやバイオリンの絃(げん)を、弦同士(どうし)で擦り合わせているみたいな音色(ねいろ)だった‥‥‥‥‥

「‥わ‥ わかせんせ‥い‥‥‥」

「え?」 突然、別の方向から、正真正銘の人の言葉が聞こえて来た。高木セナの声だった。
ぼくはびっくりして、傍らに立つ彼女に目を向ける。
気がつけば、高木セナの全身は小刻みに震えていて、さらに彼女の見開かれた両目が、今まさに白く裏返っていく瞬間を目(ま)の当たりにしてしまった。
「おっ! おい!」 ぼくは慌てて、高木セナに手を差し伸べた。しかし彼女の身体はぼくの手をすり抜け、膝をたたむ様にして頽(くずお)れていった。

高木セナが、気絶した‥‥。

次回へ続く