悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (266)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百五十一

足はすでに止まっていた。『空間の裂け目』を抜けるには十分な距離を、すでに前進して来たつもりだった。
しかし、両目はまだ瞑(つむ)ったままで、恐らく慎重に構えすぎたせいもあって、開くタイミングを逃してしまったのだ。
ぼくはゆっくりと‥‥、瞼(まぶた)を開いていった。

「 ‥‥‥‥‥ここ‥は? 」
思わずそんな言葉が口から漏れた。掴(つか)みどころの無い空間が‥目の前に広がっていたのだ。
視界の中の全てが、白っぽい薄明りに包まれていた。迷路の通路と比べてかなり広い空間に違いはないが、どこまでも高くてしかも奥行きが在りそうに見えて、そのくせ全方向の数メートル先が、靄(もや)がかかったみたいに霞(かす)んでいた。
「 セナ‥ もう目は開けたかい? 」 ぼくは傍らにいるセナに声をかけた。彼女は『空間の裂け目』を抜ける前と同様、今もぼくの左手に両腕を絡めたままでじっとしていた。
「 ‥セナ? 」 返事が無かったので、ぼくは首を回して彼女に顔を向けた。

「 えッ??」
ぼくは呆然(ぼうぜん)とした。左の傍らに寄り添っているはずのセナの姿は、そこには見当たらなかったのだ。
そんなばかな!! セナは今もこうしてぼくの左手に、その両腕をしっかり絡めているではないか!!
そう心で叫びながら、ぼくは自分の左手を見下ろした。

「 ええッ!??」
確かに両腕はあった。小学二年生女子の華奢(きゃしゃ)な両腕が、今も確かにぼくの左手に絡みついていた。だが、それだけ‥だった。腕がついていたはずの彼女の体は、どこかに消え失せていた。
「 セナ!! セナ? セナぁああ!!! 」
左手に絡みついているセナの腕をそのままに、ぼくは叫びながら辺りを見回して彼女を探した。後ろを振り返って、さっき抜けてきたであろうはずの『空間の裂け目』の方向を確認するのも忘れなかった。
しかしそこには何の痕跡(こんせき)も‥‥ 存在していなかった。

「 あぁああぁセナ! いったいどこへ行っちゃったんだよ?!
ぼくは叫ばずにはいられなかった。良からぬ想像が、次から次へと頭の中を駆け巡った。涙が溢(あふ)れ出してきて、頬を伝って地面に落ちた。


「 ‥‥まったく、騒々しいヤツだなあ。落ち着いてチョコも食べられやしない‥ 」
「 え?‥ 」
すぐ近くで声が聞こえた。振り返って見ると、五メートル程離れた場所に、地べたに座り込んでこちらを見ている‥白く霞(かす)んだ人影が見えた。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (265)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百五十

「 一緒に行くに 決まってるでしょ 」

ぼくの左腕に巻きつけられたセナの両手に更に力が込められて深く絡みつき、ぼくと彼女の体がピタリと密着した。
「 こうすれば、あなたがどこへ行こうと‥、たとえ見えなくなったとしても、絶対に逸(はぐ)れはしないでしょ? 」 ぼくの目と鼻の先に身を落ち着かせたセナは、ぼくを見上げる様にしてそう囁(ささや)いた。戸惑い気味に顔を向けたぼくのすぐ目の前には、曇りなくただ真っすぐな光だけを透(す)かす彼女の瞳が輝いていた。

「 そっ そうか‥ 分かったよ 」 ぼくは素っ気(そっけ)なくそう答えただけだったが、心の中では熱いものが込み上げていた。
この世界のぼくにとって、自分の行動に少しでも迷いが生じたり疑い出すことが、結果としてどう作用してしまうのかは今は十分に理解できているつもりだった。しかし実際には、自分を信じ切ることはやはり難しかったのだ。だから、自分と行動を共にするセナの安全を絶えず考慮しなければならないことは、更なるプレッシャーを生み、ますます判断を迷わせる要因になりかねないと思っていた。
しかし意外にも、セナの今しがたのアプローチが、ぼくにとって全くのプラスに働いていることに驚いた。彼女から発せられたポジティブでエネルギッシュな追い風が、ぼくの迷いや疑いをきれいさっぱりと吹き飛ばしてくれた気がしたのだ。
ぼくはすぐさま、ぼく自身に改めて問いかけ、確認していた。ぼくの右腕が肩口まで消えて見えなくなった板壁(いたかべ)のこの部分が、言わば『空間の裂け目』。つまり、いつまでも出られないでいた直線通路からの『隠された脱出口』に間違いないのだと言うことを‥‥‥‥

「 行こう‥ 」 ぼくは、もはや迷ったり揺らいだりしない三文字の言葉で、セナに合図を送った。
「 はい! 」 セナは元気にそれに答え、首を竦(すく)めるみたいな仕草(しぐさ)をして目を瞑(つむ)った。
板壁の前で消えかかっている右肩口を更にそこに押しつけていく感覚で、ぼくは前傾(ぜんけい)していった。同時に左足でしっかりと地面を蹴って、体全体を前進させた。右肩が吸い込まれる様に消えていき、すぐに顔が板壁にぶつかりそうになった直前、反射的にではあるが、ぼくもセナと同様に目を瞑ってしまっていた。
そして次の瞬間だが‥‥ ぼくの顔が、壁にぶつかることは無かった。

よし! 『空間の裂け目』を無事通過できている!
ぼくは出した左足に体重を乗せていき、透かさず次の右足で地面を蹴った。

前進する。前進する。前進する。ぼくの体には何の抵抗も、痛みや違和感も無かった。
ぼくの左腕に両腕を巻きついて密着しているセナの体の感触も、失ってはいない。彼女もちゃんと一緒に来ている。

よし! このまま前進だ!

次回へ続く