悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (208)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その九十三

「あっ!」高木セナが感嘆の声を上げた。
闇が退(しりぞ)き、気がつけばぼくと高木セナのやや前方とすぐ右側横に、しっかりした木の柱と板で拵(こしら)えられた壁が出現していた。間違いなくそれは、巨大迷路を構成している仕切り壁であって、左側に開いた壁のない空間が、これからぼく達が進んで行ける通路らしかった。

「やっと‥正真正銘の迷路に、入れたわけか?‥‥‥」
極めて暗示的な先ほどまでの出来事に、ぼくは明らかに動揺していた。耳にはまだ『読経』の声がこびりついて消えないでいる。
「でもここは、入口ゲートを入ってすぐの場所じゃないみたい。だって後ろにその入り口が見当たらないもの‥‥」後ろを振り向き、高木セナが不安そうに言った。
ぼくも後ろを確認し、ああ‥と頷いた。「迷路のどこか途中に、放り出されたみたいだ。とっさに逃げ出せなくなってる状況は、さっきと変わりがないな‥‥」
しかし、ここは『鼻先も見えない暗闇』ではなかった。上から光が届いている。見上げた上方、仕切り壁と仕切り壁との(つまりは通路と同じ幅の)上方の空間は、やはり伸びたツタが渡って葉を茂らせ、ところどころが天井の様になって外から射す光を遮(さえぎ)ってはいた。しかしそれらが完全に光を遮っているわけ訳ではなく、まるで樹々の木漏れ日(こもれび)の下にいる様な感覚で、決して暗くはなかった。
「さっきいた場所が何なのか‥、それに今いる場所が本当に『巨大迷路の廃墟』の中かは分からないけど‥‥、ぼく達は『誰かの意図』みたいなものに導かれ、誘い込まれている気がする」
「‥その誰かって、ヒトデナシ?」
「‥そうかも‥知れない」
だがそんな『得体(えたい)の知れない物事』に誘い込まれてしまっていたとしても、ここでこのまま立ち止まっているわけにはいかない。ツジウラ ソノやみんなを連れ帰るという目的があるのだ。
ぼくは全ての迷いを振り払う様に、高木セナの手を取り、握り直して言った。
「行こう‥。前進あるのみだ。ここがどんな場所であったとしても‥‥だ」

ぼくと高木セナは、『迷路』を進み始めた。注意深く‥、注意深く‥、注意深く‥、警戒しながら‥‥‥
壁に突き当たり曲がる度(たび)に‥、二手(ふたて)に分かれた通路をどちらか選択する度に‥、魔物が待ち構えて刃物を持って立っている姿を、想像しながら‥‥‥‥
袋小路(ふくろこうじ)の行き止まりに二度突き当たって引き返し、ぐるりと回って同じ場所に戻って来てしまう事もあった。
小学二年生の身体のその視線から見上げる2メートル余りの仕切り壁は、どこも冷たく聳(そび)え立って見えた。
「大人の体だったら、こんな壁簡単によじ登って見せるのに‥‥」そうぼくがぼやくと、「それってズルだよ」と高木セナが茶化(ちゃか)した。

そんな時である。右側の壁一枚向こう側の通路で、何かが動いている気配を感じ取ったのは‥‥‥‥

次回へ続く
尚、来週は所用の為、通常より数日更新が遅れてしまうか、お休みする可能性があります。ご了承下さい。

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (207)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その九十二

暗闇の中から染み出して来る様な幽(かす)かな『読経』の声は‥続いていた。
ぼくと高木セナは、電池(バッテリー)節約のためスマホの灯を落とし、その声がどこから流れて来ているのか、じっと聞き耳を立てていた。
声だけではなくて‥、拍子を取る『木魚(もくぎょ)』の音も響いていることに気づく‥‥‥

しばらくの間、ただその場で、じっと聞き耳を立てているだけだったが、読経の声と音は次第次第(しだいしだい)にはっきりと聞き取れる様になっていく気がした。

「‥そうか‥ ‥ 」
なぜかは分からない。ぼくはそう、呟(つぶや)いた。
そして、なぜかは分からないが、ぼくは目を瞑(つぶ)り、娘のソラを想った。

そうだった‥‥ 『ソラとのお別れの日』だった‥‥‥‥
大切なソラの体は‥ 病院からちゃんと戻ったのだろうか?‥‥‥
棺(ひつぎ)を飾る『約束の花』の用意は‥ しっかり整っているだろうか?‥‥‥‥


ソラとのお別れの儀式は、細(ささ)やかなものだったが、たくさんの人が駆けつけてくれた。
僕と妻のそれぞれの親族と友人、ソラの保育所の人達や病院の関係者‥‥。中でも驚いたのは、どこでどう聞きつけたのか、僕と妻の共通の同級生、つまり小学校時代のかつてのクラスメートの数人が、連れ立って姿を見せてくれたことである。
ほとんどが二十年余りの年を経てからの再会であったが、彼や彼女らは悲嘆に暮れる僕達を、懸命に慰めようとしてくれた。

「ありがとう‥ 杜生(もりお)に祐(たすく)‥ 」僕は彼らの名を、口に出してみた。「双葉(ふたは)と実登里(みどり)も‥わざわざありがとう。それに‥‥ 」それに彼らが携(たずさ)えてきた、当時の担任の辻占(つじうら)葉子先生のお手紙は、本当に有り難かった‥‥‥‥‥‥


カォォォォーン カンカン カォーン- ー ー ー
突然、読経を締めくくる磬子(けいす)の音が、一際(ひときわ)高く鳴り響いた。
ぼくははっとして我に返り、辺りを見回した。

周囲を包んでいた暗闇が、まるで澱(よど)だ霧が引いていく様に‥ 晴れ始めた‥‥‥‥

次回へ続く