悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (199)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その八十四

頭の中に『内なる声』が聞こえて来て、自分自身の判断や行動が左右されるということは、人には間々在り得る経験だと思っている。
それはつまり、自己意識の『自我の声』であり、時にその声は自己中心的なものであるだろうし、時には人としての良心に根ざしたものであるのだろう。

ぼくがつい先ほど聞いてしまった『自分の声』は、寝言や独り言などとはまったく別ものの、自分の口からしっかりと発せられた『本物のぼく自身の声』だった気がする。
ぼくはその時、平静だったつもりだが、『声』は明らかに感情的に怒鳴っていた‥‥‥‥

「‥‥わけが‥‥ わからない‥」 ぼくは、今度は正真正銘の独り言を言った。
まるで手の込んだ手品か、ふざけ過ぎてる冗談につき合わされてるみたいだ。
例えば、ぼくは腹話術の人形で、誰かがぼくを操(あやつ)り、勝手に喋らせてる感覚。いったいぼくは、ぼくの体と心には、何が起こっていると言うのだ?‥‥‥‥

「‥‥いや」
考えてはいけない。これも、ぼくがこの『小学二年生の遠足』に知らぬ間に参加している理由と同じで、突き詰めて考えようとすると、例の『強烈な頭痛』がまたやって来るに違いない。
ぼくは、雲に覆われたままの空を仰いだ。
考えて立ち止まっているより、目先に在る目的に向かって体を動かすのだ。そうすれば自(おの)ずと答えも見つかっていくものなのかも知れないではないか。例えその目的への行動自体が、ぼくという人形を操る誰かのシナリオ通りだったとしてもだ。
ザサザササァァー ー
ぼくは前進を再開した。気を取り直して、断じて操り人形などではない手と足を動かし、草を搔き分け踏み倒した。正体不明の風太郎先生に先導されていったツジウラ ソノを見つけ出し、彼女を必ず連れ帰るのだ。
バシバキザザザァ ザサッ 「!」
丈の高い草と樹々の隙間に、『こんもりとした緑の小山』が見え隠れし出した。巨大迷路の廃墟はもう目と鼻の先にある。勢い込む代わりに、ぼくは身を屈め、搔き分ける手と踏み出す足を出来るだけ音を立てない動きにシフトダウンした。
やがて深い茂みが切れ、十数メートル先に見覚えのある、緑の蔦(つた)で覆われたどっしりとした外壁(そとかべ)が姿を現した。
「ああ!」そしてぼくは思わず呻(うめ)き声を上げてしまい、人目につかぬ様、慌てて草の地面に突っ伏し身を潜めた。
外壁に咲く、『大きな赤い花』が増えていた。前回来た時には見当たらなかった廃墟の南側の壁にも、腹を裂かれてはみ出した、人間の臓器で出来た悍(おぞ)ましき赤い大輪が、そこかしこに吊るされていたのだ。
「大歓迎だな‥ いったいどれだけの人が犠牲になってるんだぁ??」
嚙み殺す様な独り言が、ぼくの口から漏れた。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (198)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その八十三

ソラは‥ まるで、目覚めることが難しいだけの深い眠りに落ちていったみたいに‥‥、病院のベッドの上で息を引き取った。
そんなソラに追いすがって泣き続ける妻がいて、僕はと言えば、彼女をそのままにしてひとりで病室を出たのだ。どれくらいの時間そうしていたのかは分からない。人気のない冷たい廊下をふらふらと当ても無く、ただ彷徨(さまよ)っていたのを‥朧(おぼろ)げに憶えている‥‥‥‥‥‥

ふと気がつけば‥ 病院の関係者らしき男が、僕の行く手を阻(はば)む様に正面に立っていた。そして突然、僕は『あの相談』を持ちかけられたのだった。
彼は、娘の体の中で一体何が起こっていたのかを研究し突き止めたいと言う。そのためには、考えられる複数の組織の検体を採取し、しっかり腰を据えて検査をする必要があるらしい。すぐにでも親である僕の承諾を得、幾つかの書類を交わしたい旨(むね)を伝えてきた。彼の後方の少し離れた場所に、さっきからずっとこちらの様子を窺っている白衣を着た二人の若者がいて、彼が僕に頭を下げるタイミングに合わせて、彼らも小さく会釈(えしゃく)するのが見て取れた。

「ここに来て‥‥娘の体を‥調べる‥のですか?」
「はい‥」
「解剖を‥‥するのですか?」
「正式には病理解剖‥と言います」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「ご葬儀の日までにはお返しするよう‥心掛けます」
「あっ‥」僕は思わず、小さく声を上げていた。
僕は、ソラが死んで、幼い娘の葬式を挙げなくてはならなくなったことにその時初めて思い至ったのだ。気がつくと、両頬(ほほ)を伝って落ちていくものがあった。僕は知らぬ間に、泣いていたのだ。

そして‥‥ 同時に、ソラと過ごしたある日の光景が、脳裏に浮かんでいた。
それは、ソラが最初の発作を起こす二ヶ月ほど前のことだったろうか‥‥。夕食のあと、リビングを横切ると、ソラがソファーに深く座り込み、勝手にテレビを点けて、洋画らしきものを観ていた。
ソラは、通りがかった僕にここぞとばかりに質問する。「ねえ とうさん、これはどこの国のお話?」
僕は振り返って、テレビモニターに目をやった。
「‥‥ヨーロッパが舞台の‥映画みたいだね。さすがにここだけじゃあ、どの国かまでは分からないなあ‥」
「だったら、とうさんもここへきて、いっしょにみてよ」ソラが、自分が陣取っているソファーの右側の空間を、可愛い手でポンポンと叩いた。
その仕草が愉快だったので、僕は「わかった‥。刺激の強いシーンがないとも‥限らないからなぁ」と言って、しばらく娘につき合うことにした。

その映画は、二十世紀初頭のオーストリア貴族一家のお話で、年頃だが病弱の姉と、彼女に憧れる年の離れた妹を中心にその日常が描かれていた。姉は、ある青年画家に恋をし、その青年も、どこか儚(はかな)げな姉の美しさに心惹かれていく。しかしそんなふたりの仲を、親が許すわけもなかった。それでも、姉の恋が成就することを願う妹の機転で、ふたりは密会を繰り返すこととなり、青年は彼女をモデルに一枚の絵を描き上げていくのだった。
そして物語のクライマックス。絵の完成を目前にして姉は病に倒れ、帰らぬ人となる。青年は悲嘆にくれ、自ら命を絶つのだった。
姉の葬儀の日、彼女の棺(ひつぎ)は、青年との思い出の花『アイリス』で埋めつくされていた。それは、天国でふたりが一緒になってほしいと願う、妹の仕業であった。

映画を観終わったソラは泣いていた。僕も少ししんみりとして、ソファーの横で鼻水をすする娘の頭を撫でた。
「とうさん‥‥ わたしがもし死んだら‥‥‥」唐突にソラが言った。「‥アイリスではなくて、『赤い野ばら』で‥‥、ひつぎをいっぱいにしてちょうだい‥‥‥」
「あ‥ ああ」僕は考えもなしに答えていた。「わかったよ。そうしよう‥‥」

そのやり取りが全部、キッチンで夕食の後片づけをしていた妻にも聞こえていて、苦笑いをしながら声を掛けて来た。
「とうさんたら‥、そんな約束しないでちょうだい。縁起でもない‥‥‥」

次回へ続く