第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その七十二
記憶の中にすっかり埋もれていた、とうに過ぎ去った日常のひとコマ‥‥‥
その場の思いつきで、娘や妻をちょっとでも愉快にさせて、目の前にあった不安な現実を遣り過ごしたかっただけの他愛(たあい)もない会話だった。
それが、『ぼくが今 ここにこうしている理由』であるとは、俄(にわ)かに信じ難(がた)かった。
「きみは‥『夢』の内容以外に、自分が大人になってるみたいな『別の記憶』はあるかい? 例えば、仕事をしてたり結婚してたり、子供を産んで育児をしてたりとか‥‥」
ぼくは高木セナに、そう切り出してみた。彼女がもしかしたら本当に、『小学生になりすました大人』なのかどうか、確かめてみたかったのだ。
高木セナは真剣な顔で考えて、「そんなの‥ ないよ」と首を小刻みに何回も振った。
その様子を見て、ぼくには、彼女が嘘をついてるとはどうしても思えなかった。
「やっぱりツジウラか‥‥。君の言う通り、ツジウラ ソノが何者なのか、ぼくも確かめたくなった。実際、彼女が二年の新学期になって転校して来たこと自体も、ぼくはちゃんと知らなかったんだ‥」そう言って、ぼくは辺りに目を泳がせた。
「‥‥‥‥‥‥‥」高木セナがそんなぼくを、黙って見つめていた。
「ヒカリくんは、どうなの?」
「え?」
「ヒカリくんは『別の記憶』はないの? 自分が大人になってる記憶、ソラという女の子のお父さんだった記憶‥」
「あ‥‥」虚(きょ)を突かれた感覚だった。ぼくは押し黙って、高木セナを見つめ直すしかなかった。
ある。自分に問い直す必要はない。ぼくは大人で、ソラの父親だ。
だが、高木セナの突然で当然の問いかけに、まるで『我に返った』みたいに、自分を見つめ直す必要を感じた。この遠足の間中ぼくは、『自分がなぜここにいて、なぜ小学二年生の姿に戻っているのか』を不思議に思いつつ、どうでもいいことの様にやり過ごしてここまで来てしまったのだ。
いったい‥ ここはどういう場所で‥ ぼくは‥ どうなってるんだ???
ぼくはこれ以上この疑問を、そのままにしておくわけにはいかないと、強く感じた。強く感じて、自分に問うた。問い続けた。
「う‥ うゥ‥ッ‥」
「ヒカリくん? どうしたの?ヒカリくん!」
高木セナが慌てて駆け寄って来た。気がつけばぼくは、両手で頭を抱え、芝生の上に膝をついていた。
「ごめん。ひどい‥頭痛がするんだ」
それは確かに頭痛であったが、ただの頭痛ではなかった。頭の中に、いろんな感情が目一杯ギュウギュウに詰め込まれた領域があって、ドロドロミシリと混濁(こんだく)しながら今にも破裂しそうに振動していた。しかしその中心部には、何物も寄せつけず一切の侵入を許さない空白の領域が存在していて、その二つの領域の境界が、互いの凄(すさ)まじい圧力で鬩(せめ)ぎ合っていた。
だだの頭痛では‥ なかった‥‥‥‥
次回へ続く