悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (188)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その七十三

突然訪れた‥娘『ソラ』の死。その打ちのめされるほどの悲しみは、何も生みはしなかった。
むしろ僕から、生きる意欲を奪い去り、これからの人生の意味さえも見失わせた。

ソラがいなくなって生じた『空白』は、日々の生活のいたるところにつきまとい、悲しみの涙に暮れる僕と妻の心を疲弊(ひへい)させていった。
このままでは駄目になってしまうことは目に見えていても、人や信仰に頼りたくはなかった。仮に何かでその『空白』を埋めようとしたり、蓋(ふた)をしたり隠したりして誤魔化(ごまか)したとしても、それは、かつてソラが確かに存在したことの紛れもない証(あかし)に相違ない『ソラの空白』に対する明らかな冒涜(ぼうとく)であって、安直で愚かな弱さからくる裏切り行為だと考えるようになっていたのだ。
つまり、ソラを失ってみて骨の髄(ずい)まで身に染みて理解したことだったが、この世の何をもってしても『ソラの空白』は絶対に埋まらないし埋めることはできない。世の中がひっくり返る様な奇跡でも起きて、ソラが元通り生き返りでもしない限り‥‥‥‥‥


「・・‥‥大丈夫、もう大丈夫だ」
頭痛が治まっていったので、ぼくはゆっくりと身を起こし、傍で心配そうに覗き込んでいる高木セナに声をかけた。
「ごめん。私のせいね‥ 私が変なこと聞いたから‥‥」彼女は少し、べそをかいていた。
「違うよ、違う。急に疲れが出たんだと思う。何せ、いろんなことがあったから‥」ぼくは嘘をついた。

この遠足に、小学二年生の姿で身を置いることに気づいてからの、『いったい‥ここはどういう場所で‥‥、ぼくは‥どうなっているのか??』という率直な疑問。遣り過ごしてきたこの疑問に、初めて真正面から向き合おうとした時、頭痛が起きたのだ。それはやはり、高木セナの、「ヒカリくんは『別の記憶』はないの?」という質問が切っ掛けだった。
もう、あんな‥頭の中がどうにかなってしまいそうな酷い痛みは、ごめんだ。ぼくはあっさりと、自分がどうして遠足にきている?とか、自分はどうなっている?とか、考えるのはよそうと思った。そう‥、自分でも不思議なくらいあっさりと、何の躊躇(ちゅうちょ)もなくだ。そうすることが至極(しごく)当然だとさえ、考えていたのかも知れない。

「君にだけは‥、正直に言っておくけど‥‥」ぼくはいきなり、高木セナに向かって切り出した。この場の今だけでも、適当に収めておこうと、謀(はか)ったのだ。「ぼくには、大人だった記憶があるんだ。たぶんそれらは未来の記憶で、そこでは、君とぼくは夫婦だったし、ソラという娘もいた。全部、君の見た『夢』の通りだ」
やはりいきなり、そんな話を切り出された高木セナは、目をまんまるにして聞いていた。
「だったら! もっもしかしてヒカリくんは、未来から来たって?いうこと??」彼女は興奮して聞き返してきた。
ぼくは冷静に、あくまで冷静に、首を横に振った。
「そんなこと、あるわけないよ。ぼくが、大人になってるみたいな記憶があるのは‥、いつの間にかそういう記憶が、勝手に頭の中に流れ込んできたせいなんだ」
「ええっ? 勝手に、頭の中に??」彼女は、今度は目を白黒させた。
「そんなに驚くことないさ。君だって、時々『夢』で未来のことを見てるじゃないか」
「あ‥ そうか‥‥‥」高木セナは我に返った様に頷いていた。
ぼくもつられて、大きく頷いた。
彼女に話した内容は、適当に考えた嘘だった。これでまた、『ずっと遣り過ごしてきた例の疑問』への問いかけは、先延ばしにできた。あの嫌な頭痛を体験しなくて済むのなら、それに越したことはない。ぼくは心底、そう思っていたのだ。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (187)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その七十二

記憶の中にすっかり埋もれていた、とうに過ぎ去った日常のひとコマ‥‥‥

その場の思いつきで、娘や妻をちょっとでも愉快にさせて、目の前にあった不安な現実を遣り過ごしたかっただけの他愛(たあい)もない会話だった。
それが、『ぼくが今 ここにこうしている理由』であるとは、俄(にわ)かに信じ難(がた)かった。

「きみは‥『夢』の内容以外に、自分が大人になってるみたいな『別の記憶』はあるかい? 例えば、仕事をしてたり結婚してたり、子供を産んで育児をしてたりとか‥‥」
ぼくは高木セナに、そう切り出してみた。彼女がもしかしたら本当に、『小学生になりすました大人』なのかどうか、確かめてみたかったのだ。
高木セナは真剣な顔で考えて、「そんなの‥ ないよ」と首を小刻みに何回も振った。
その様子を見て、ぼくには、彼女が嘘をついてるとはどうしても思えなかった。

「やっぱりツジウラか‥‥。君の言う通り、ツジウラ ソノが何者なのか、ぼくも確かめたくなった。実際、彼女が二年の新学期になって転校して来たこと自体も、ぼくはちゃんと知らなかったんだ‥」そう言って、ぼくは辺りに目を泳がせた。
「‥‥‥‥‥‥‥」高木セナがそんなぼくを、黙って見つめていた。

「ヒカリくんは、どうなの?」
「え?」
「ヒカリくんは『別の記憶』はないの? 自分が大人になってる記憶、ソラという女の子のお父さんだった記憶‥」
「あ‥‥」虚(きょ)を突かれた感覚だった。ぼくは押し黙って、高木セナを見つめ直すしかなかった。

ある。自分に問い直す必要はない。ぼくは大人で、ソラの父親だ。
だが、高木セナの突然で当然の問いかけに、まるで『我に返った』みたいに、自分を見つめ直す必要を感じた。この遠足の間中ぼくは、『自分がなぜここにいて、なぜ小学二年生の姿に戻っているのか』を不思議に思いつつ、どうでもいいことの様にやり過ごしてここまで来てしまったのだ。

いったい‥ ここはどういう場所で‥ ぼくは‥ どうなってるんだ???

ぼくはこれ以上この疑問を、そのままにしておくわけにはいかないと、強く感じた。強く感じて、自分に問うた。問い続けた。
「う‥ うゥ‥ッ‥」
「ヒカリくん? どうしたの?ヒカリくん!」
高木セナが慌てて駆け寄って来た。気がつけばぼくは、両手で頭を抱え、芝生の上に膝をついていた。

「ごめん。ひどい‥頭痛がするんだ」
それは確かに頭痛であったが、ただの頭痛ではなかった。頭の中に、いろんな感情が目一杯ギュウギュウに詰め込まれた領域があって、ドロドロミシリと混濁(こんだく)しながら今にも破裂しそうに振動していた。しかしその中心部には、何物も寄せつけず一切の侵入を許さない空白の領域が存在していて、その二つの領域の境界が、互いの凄(すさ)まじい圧力で鬩(せめ)ぎ合っていた。
だだの頭痛では‥ なかった‥‥‥‥

次回へ続く