悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (172)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その五十七

ヒトデナシはもう! こんなに人を殺していたのか???
ぼくは双眼鏡で見たその光景にすっかり気が動転してしまい、冷静さを失いかけていた。

「いったい誰が? 誰が吊るされてる?!」ぼくは、ついつい言葉を漏らしてしまった。
「なに?なにを見てるの? ツルサレテルって何のこと?」ぼくが双眼鏡で見ているものを知りたくて、ぼくのすぐ横にぴったりと身を寄せていた高木セナが、驚いた声で問いかけてきた。
「あっ、いやっ、違うんだ‥」ぼくは誤魔化した。そして、手の震えを抑えるために双眼鏡を握り直した。
ここは落ち着いて観察しなければならない。新しく吊るされているのは、誰と誰なのかを。

巨大迷路廃墟の南側の外壁に咲いた『赤い花』は全部で五つ。つまり、腹を裂かれて内臓をはみ出させ、逆さまに吊るされた死体は五体確認できた。
しかし、その全てがどう見ても大人で、小学二年生らしき子供の死体が存在しないと分かった瞬間、誠に不謹慎ではあるがぼくは少しほっとした。
ぼくは仕切り直しをして、今度はそれら遺体の一つ一つの特徴を具(つぶさ)に観察していった。風太郎先生の双眼鏡は小型ではあるが、予想以上の性能を持っていて、こんなに離れていながらも様々な情報がぼくの目に飛び込んで来た。
まず彼らは全員、男性であった。着ている服やだらりと垂れ下がった両腕や頭部は、例外なく傷口から流れ出た大量の血で真っ赤に染まっていて、その特徴はおおよそでしか判別できないが、一番左端の男は薄手のパーカーを、四番目の男は農作業でよく見かける作業着を身に着けている。五番目の男はカッターシャツに濃い色のスラックスを履いていて、帽子は無かった(逆さまになった時、落ちたのかも知れない‥)が、どこか‥普段見慣れているタクシー運転手の服装を思い起こさせた。問題なのが二番目と三番目の男である。やはり帽子は被っていなかったが、身に着けているのは明らかに制服である。腹部が裂かれてはみ出した腸が絡みついてはいるが、切れてしまった腰のベルトに何やら棒状の物と、固そうな皮のケースが付いていた。ぼくには彼らが、『警察官』に見えたのだ。

「これは‥‥ まずいぞ‥」と、またしても言葉がこぼれ出た。

「何よ、さっきから! 少しは説明してよ!」しばらくの間相手にされず、苛々(いらいら)し始めていた高木セナが、不満の声をぶつけて来た。
「もしかしたらもう‥‥ 助けは来ていたのかも‥知れない‥‥‥」ぼくは、まるで独り言の様な口調で、彼女に答えた。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (171)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その五十六

厚い雲に覆われたままの灰色の空と、人影の消え失せた芝生広場‥‥‥‥
ぼくは高木セナと二人並んで、ただ黙って歩いていた。
歩を進めるぼくたちの靴底と、地面を覆っている芝草との摩擦音だけが、辺りに控えめに響いていた。

ぼくには色々と確かめたいことがあって、それを独りで行なうつもりでいたが、高木セナがついて来るのならそれでも良いと思った。彼女をパートナーとして行動することには慣れている。
ただ、彼女の身に危険が及ぶ事態だけは絶対に避けようと、心に誓っていた。
「今‥この場所で、一体何が起きていて‥‥、これから何が起ころうとしているのか、確かめる必要があると考えてるんだ‥‥‥」ぼくは前を向いたままそう言った。彼女もまた前を向いたまま、ただ小さく頷いた。

ぼくたちは芝生広場を北に向かって横切り、やがて駐車場に到着した。
さすがに駐車場まで来ると、高木セナは警戒心を露(あら)わにしたが、ぼくは迷わず歩き続け、駐車場の北側の端の、組み合わせた丸太を模してあるコンクリート製の柵(さく)の前で止まった。柵の向こうは緩やかに下りながら傾斜していて、そこに立てば、草木に覆われて眼下に広がっている辺り一帯を見渡すことができる。
ぼくは『確かめておきたい事』のひとつを実行すべく、背中のリュックを下ろし、中から『例の道具』を取り出した。
「あっ 何それ?」高木セナが興味深げに覗き込んできた。
「双眼鏡さ‥。風太郎先生がバードウォッチング用に持って来たものを貸してもらったんだ」
「へぇ‥‥‥」
幸い彼女は、今の風太郎先生の消息を質問してこなかった。ぼくは早速、ケースから出してレンズキャップを外した双眼鏡を両手で構え、その対物レンズを迷わず、やや西よりの彼方(かなた)に位置する『こんもりとした緑の小山』に向けた。すでに足を運んでこの目で確かめた、言わずと知れた巨大迷路の廃墟である。ここからは距離にして優に300メートルはあるが、双眼鏡を使えば、下手(へた)にリスクを冒さなくても十分に観察できると考えたのだ。

「何を‥‥見ているの?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
ぼくは、興味津々(きょうみしんしん)に体を寄せて話しかけてきた高木セナの問いに、答えなかった。否、答えられなかったのだ。
酷く動揺していた。双眼鏡を持つ手が小刻みに震えているのが分かった。
声に出さずに、ぼくは数えていた。一つ!‥二つ!‥三つ!‥四つ!‥‥‥‥‥

水崎先生と教頭先生、そして後ふたつの不明の遺体が、『赤い花』のごとく腹を裂かれて逆さまに吊るされていたのは、巨大迷路廃墟の西側の外壁(そとかべ)であった。そして、今ぼくが双眼鏡で見ていたのは、西側から北へ直角に回り込んだ『南側』の外壁。芝生広場に戻る時には何も無かったはずの南側の外壁が今に至って、複数の新たな『赤い花』で飾られていた。恐らく西側の壁をすでに埋め尽くし、溢(あふ)れて南側にまで到達したのだ。

ぼくが予見した通りの『不吉な連続性』が、着実に、進行していた‥‥‥‥‥

次回へ続く