第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十九
「風太郎先生が『ヒトデナシ』に飛びついて背後から両手を首に回した瞬間、シュッと音がして霧みたいなものが立ち昇ったの」と、葉子先生はやや興奮気味にその時の様子を振り返った。
どうやら風太郎先生は、小さめのスプレー缶らしきものを手に握っていて、それを『ヒトデナシ』の顔目掛けて噴射したらしい‥‥‥‥
「例えば‥防犯用の催涙スプレーだったのかもしれない。風太郎先生はそれを目一杯、『ヒトデナシ』の顔に浴びせ続けたのよ」
風太郎先生がなぜ催涙スプレー?を所持していたかは不明だが、効果はてき面だった。蛇に睨まれた蛙のごとく動けなくなっていた草口ミワと高木セナに振り下ろされようとしていた『ヒトデナシ』の刃物を持った手が止まり、力が抜けた様にだらんと下がっていった。体が小刻みに震え、上半身を苦し気にのけ反らせるのが分かった。風太郎先生は手を緩めない。スプレー缶をさらに『ヒトデナシ』の顔に近づけて浴びせ続け、そして叫んだ。「二人とも!逃げろ!逃げるんだ!」
風太郎先生の呼びかけに草口ミワは我に返った。傍らに座り込んでいた高木セナの腕を思い切り握って引っ張り起こし、引きずる様にして駆け出した。その時、託されていた葉子先生の携帯電話を芝草の上に放り出しておくのを草口ミワは忘れなかった。
やや離れた後方から成り行きの全てを目撃していた葉子先生は、草口ミワと高木セナが難を逃れたことに安堵し、危険を顧(かえり)みない風太郎先生の行動に深く感謝した。
ギィイキィキィイイィィィィ--
何かが軋(きし)む様な、この世のものとは思えない奇妙な音が聞こえた。どうやら『ヒトデナシ』のうめき声らしかった。明らかにもがき苦しんでいて、組みついて離れない風太郎先生を振り払おうとしている。一瞬の見間違いかもしれないが葉子先生の目には、『ヒトデナシ』の頭と上半身の一部が凸凹(でこぼこ)に大きく膨らんでぼやけていき、後ろの景色が透けて見えた気がした。
「先生!葉子先生!」そんな『ヒトデナシ』となおも格闘中の風太郎先生が、今度は葉子先生に向かって大声を張り上げた。「先生も早く!逃げ遅れてる子たちを連れて早く逃げて!」
「わっ、わかった」風太郎先生には聞こえずとも、葉子先生の口から思わず返答の言葉が漏れた。
受けた背中の傷の痛みを堪(こら)えて葉子先生は立ち上がり、庇(かば)っていた子たちを両腕で抱える様にして、その場からできうる限り離れようと走り出した。
すっかり厚い雲に覆い尽くされた空の下、葉子先生は懸命に走った。背中の傷から出血している感覚をありありと感じながらも、子供たちを連れてひたすら走り続けた。風太郎先生が『ヒトデナシ』の足を止めている現場を大きく迂回し、迷わず芝生広場の端にある林を目指していた。そこまで行けば少なくとも立ち並ぶ樹々の中に身を隠せるし、ここ(芝生広場)に来る際に歩いて来た林の中の道を逆に辿れば、何とか逃げ果(おお)せるのではないかと考えたのだ。
葉子先生は林が目前に迫るまで走り続け、その間一切後ろは振り向かなかった。林が近づくにつれ、付近には逃げ惑(まど)った様子の子供たちの姿が幾人も確認できた。
「あなたたち、早く林の中に!木の陰に隠れなさい!」葉子先生は目に留まった全員に、片っ端から声を掛けていった。
顔を強張(こわば)らせながら心細そうに集まって来た子供たちを引き連れ、やっとの思いで林に到着した葉子先生はここで初めて、彼女が後にして来た広場の方を振り返り、その様子を窺(うかが)った。
しかし芝生広場を端から端まで見渡してみても、『ヒトデナシ』の不気味な陰のごとき輪郭も、その体に組みついた風太郎先生の勇ましい姿も、あって然(しか)るべき格闘の痕跡すらも‥‥‥、結局何も見つけることはできなかった。
次回へ続く