第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十二
「ヒカリ‥くん?」
ぼくを呼ぶ声がした。
「ヒカリくん」
声は、クヌギの木に浮かんだ首の一つから発せられていた。
「怖い人は‥‥もういない?」別の首が問うた。
ぼくは呆気(あっけ)に取られて、その首たちを見つめ直した。
三つの首のうちの一つが、スッと、茂った木の葉の中に吸い込まれて消えた。
ガサガサッと音がして、太目の枝と幹に器用に手足を掛けながら、一人の女子がクヌギの木から降りて来た。
ツジウラ ソノだった。
ぼくは「ああ‥」と思わず呻(うめ)き声を上げ、安堵のため息をついていた。
ツジウラ ソノに続いて残りの首の二人が、すとん‥すとんと木から飛び降りて、地面に降り立った。フタハとミドリだった。
「みんな、無事だったのか!」ぼくは三人に声をかけた。
「無事なもんか‥」不満そうな男子の声が聞こえて、首を出さずに隠れていたであろう四人目が、慎重に幹にしがみつきながら降りて来た。モリオだった。
「モリオもいたか!」ぼくは嬉しくなって、モリオの方に歩み寄って行った。
「‥‥‥‥‥」やっとこさ地面に両足をつけたモリオだったが、近づいて行くぼくに目もくれず、そのまま黙って木の上を見上げていた。まだ、他にも誰か木の上にいる様だ。
モリオが、『手を差し伸べる』といった感じで両手を上方に伸ばした。するとモリオの見上げている辺りの枝葉の陰からゆっくりとズックを履いた大人の足が現れ、不器用そうに幹に足を掛けた。ツジウラ ソノやフタハとミドリもモリオの傍らに駆け寄り、降りて来ようとしている人物の体を支えるべく、みんな一緒に手を伸ばした。
木の幹伝いに下半身が現れ、徐々に上半身が見えてきて‥‥頭が現れた。みんなの助けを得て何とか地面に降り立つ事ができたのは、葉子先生その人だった。
葉子先生の生存を知った瞬間だったが、彼女の全身を目にしてぼくは息を吞んだ。葉子先生の身に着けていたパーカーとズボンは、間違いなく彼女自身の血で、真っ赤に染まっていたのだ。
「ヒカリ‥‥くん‥」葉子先生はすぐ傍まで来たぼくを見て、安心した様に微笑んだ。
しかし次の瞬間、いきなり力が抜けたみたいに頽(くずお)れた。
「先生!」「葉子先生!」「大丈夫?葉子先生!」全員が慌てて彼女の体を支え直した。ぼくも素早く両手を差し出してそこに加わった。
「楽にする‥わ‥‥」葉子先生はそう言って、ぼくたちの補助を辞退し、クヌギの木の根元の叢(くさむら)にうつ伏せに横たわった。うつ伏せになってこちらを向けた彼女の背中には、服の上から切りつけられた幾つもの傷があって、今も新鮮な血を染み出させていた。
「何とか、血だけでも止めなきゃ!」フタハが泣きそうな声で言った。
ツジウラ ソノとミドリは、葉子先生からウエストポーチを拝借し、止血に必要なものを探し始めた。
しかし葉子先生の負っている傷は、簡単な応急処置で今を凌(しの)げる様なレベルのものでない事は明らかだった。
「い‥いったい、何があった?」ぼくは誰とは無しに問い質していた。「他のみんなはどこに行った?」
誰も答えなかった。モリオは途方に暮れた様子で座り込んでしまった。
「‥ヒト‥デナシ‥が‥‥‥出たのよ」
随分と間があって、答えらしき言葉が返って来た。その弱々しい声の主は、葉子先生だった。
次回へ続く
葉子先生が犠牲になったのは残念ですが何より子供達が無事で一安心しました。
これから夢がどう進んでいくのか楽しみです。
コメントありがとうございます。
葉子先生には申し訳ないことをしました。でも、決して無駄な負傷ではなかったはずです。背中にあるたくさんの切り傷はその証拠です。
早速、続きを書きます。