第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十三
「ひと‥でなし?‥‥‥」
ぼくは今聞こえて来た言葉を聞こえたままに繰り返し、葉子先生を見た。
聞き間違いではない。葉子先生は確かに『人で無し』、『人で無しが出た』と言ったのだ。
「そう、ヒトデナシ‥」葉子先生の傍らにいたツジウラ ソノがその言葉を引き継ぐみたいにまた繰り返した。そしてひとり言の様に続けた。「教頭先生が襲われた時、そう叫んでた。ヒトデナシだ!ヒトデナシが出た!って叫び続けてた‥‥‥」
「教頭先生が?」ぼくは、今度はツジウラ ソノを見た。「教頭先生が本当に、そう叫んだのか?」
「そう、私も聞いた」「うん‥‥」やはり葉子先生の傍らにいて、彼女の手当を懸命(けんめい)に試みているフタハとミドリが言った。
ぼくは首を傾(かし)げた。教頭先生が本当にそう叫んでいたとしたら、ひどく滑稽(こっけい)な言葉だと思ったからだ。『人で無しが出た』なんて、突然何者かに襲われた人間が、はたして叫ぶだろうか?あまりにも陳腐(ちんぷ)で、その場に似つかわしくない表現ではあるまいか‥‥‥‥
「もっと詳しく、その時のことを聞かせてくれないか?」ぼくはそこにいる全員に言った。結局のところ、いったい何があったのか知りたかったのだ。
「たぶんあの時、教頭先生の一番近くにいたのは、私だったと思う」話し出したのはツジウラ ソノだった。
「私とモリオくんは、駐車場と芝生広場の境目の石の上に座ってて、水崎先生の車の傍で話し合っている教頭先生と葉子先生を見てた。しばらくして、教頭先生だけがご自分の携帯電話を構えてトイレの脇の方まで歩いて行って、隠れるようにして話し出したの。たぶん広場にいるみんなに聞かれたくなかったんだと思う。色んなところと連絡を取っている感じだったから。そうしたら‥いきなり、知らない人が駐車場の真ん中に立っていたのよ‥‥‥」
「いき‥なり?」妙な言い回しだと思って、ぼくは口を挟んだ。
「そう、いきなり。突然どこからか湧いて出て来たみたいに‥‥いつの間にか立ってたの。その‥知らない人が教頭先生に近づいて行って‥‥、教頭先生がその人に気づいて振り向いたと思ったら‥‥‥、教頭先生の携帯電話が宙に舞ってどこかに飛んでった‥‥」
「そこで教頭先生は、ものすごい悲鳴を上げたんだ。うわあああああ‥て」いつの間にかぼくの後ろにモリオが立っていて、いきなり話に加わった。ぼくは飛び上がって驚いてしまった。そんなぼくの肩に手を置き、モリオは続けた。
「みんなが教頭先生の方を見た。教頭先生は尻もちをついたみたいに駐車場の脇に座り込んでいて、怯えた顔でそいつを見上げてた‥‥。その時だよ、『ヒトデナシだ!ヒトデナシが出た!』て教頭先生が叫んだのは」
「‥‥‥‥‥‥」ぼくはやっぱり首を傾げた。普通に使われている表現と違って、教頭先生が叫んだ『ヒトデナシ』はまるで、そんな名前のついた『化けもの』か『妖怪』がいて、そんな特別な存在を呼んでいる時の感覚に似ている‥‥‥‥‥‥
「それで‥‥その『ヒトデナシ』は、どんなヤツだったんだ?」ぼくは少しだけ冗談めかして、モリオに質問した。
「‥‥‥‥それが‥変なんだ。よく分からない‥んだ」返って来たのは歯切れの悪い言葉だった。
見るとミドリもフタハと顔を見合わせ、頻(しき)りに首をひねっている。ツジウラ ソノも言葉を探しているのか、黙り込んでいた。
「みんな、どうしたんだ?覚えてないのかよ‥‥‥‥‥」
沈黙がしばらく続いた後、ツジウラ ソノが口を開いた。
「体がすごく大きい‥‥おとなの男の人だった。でも、どんな顔してるとか、どんな服着てるとか、細かいところを見ようとすると、暗い陰の中をのぞいてるみたいになって‥‥何もかもが境目をなくしたみたいにはっきりしないの。私の感じたイメージを‥‥感じたまま‥‥正直に言ったなら、例えば‥‥」
「例えば?」ぼくは思わず相槌(あいづち)を打ってしまった。
「例えば‥‥パレットに黒い絵の具を多めに出して、その後、茶色と緑の絵の具を出して‥‥そう、青も少し加えて、ぐるぐるっと荒っぽく筆でかき回して‥‥でも、まだまだ混ざりきってなくて‥‥。そんな、ただの黒ではない色をした『人の形(かたち)をしたもの』を見ているみたいな‥‥、感じかなあ‥‥‥‥‥‥」
次回へ続く