悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (138)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その二十五

高木セナが姿を消した後、ぼくはその場に佇み‥‥後悔していた。

時間がないと考えながらの彼女とのやり取りに、ついイライラしてしまったのだ。彼女に注意を促すためとは言え、あんな嫌な言い方をする事はなかった。

『ソラの葬儀』の日‥‥‥。祭壇には約束の花で飾られた小さな棺(ひつぎ)と、愛しい笑みを浮かべた幼い遺影があった。
そして‥‥、列席者の一人となった『大人になったセナ』の姿を‥はっきりと思い出していた。
一切の感情を喪失した抜け殻の様な彼女は辛うじて前方に目を向け‥、子供の頃と変わらぬその大きな瞳にただ‥虚(うつ)ろを映していた。

そんなセナを見て、あの時ぼくは誓ったはずではないか‥‥‥‥‥‥‥


「‥‥すまない‥」飲み込めずに小さく言葉が漏れた。
持っていた『水崎先生の指』が手をすり抜け、ポトリと足元の草むらに落ちた。

「ダメだ。時間がないんだ」ぼくは頭の中にある全ての記憶を追い払う様に、大きく首を左右に振った。屈み込んで、落とした指を拾い上げ、ついでに残りのもう一本も回収して、二本一緒にズボンのポケットへと仕舞い込んだ。「水崎先生が無事ならこの指だって、後でくっつけることができるかも知れない‥‥」
とにかく一刻も早く、流れ出た血の跡を辿って水崎先生の居所を突き止めるのだ。

ぼくは腰を落とし、指を発見した草むらの二、三メートル周囲の地面や下草、茂った葉っぱの表面などを隈なく、目を皿のようにして観察していった。一人の大人の体が、血を流しながら移動したのだ。見落とさなければ必ずその痕跡を見つけ出せるはずだ。

「‥ん?‥‥‥‥」
僅かに草がよじれて、裏返った場所があった。おまけに小さな水玉状の赤黒いシミまである。痕跡に間違いなさそうである。
ここを取っ掛かりにして、移動していった方向を特定できないだろうか? 例えば、指を発見した場所を『A』として、今痕跡を見つけた地点を『B』とする。『A』と『B』を直線で結んで、多少の誤差角度を考慮しつつその延長線上に新たな痕跡が存在したなら、大まかな移動方向の特定が可能なはずだ。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
しかし物事はそう思い通りには運ばなかった。『C』となるはずの次の地点が、なかなか見つけられなかった。
時間がないという焦りが、再び甦(よみがえ)って来た。‥とその時、焦る気持ちと同時になぜか『携帯電話をかける教頭先生の姿』が頭の中に浮かんできた。
「待ってください、教頭先生!遠足中止の決断はもう少し先に‥‥‥」独り言が出た。

そうなのだ。全ての判断を下すのは、この遠足での一番の責任者である教頭先生なのだ。彼が、遠足存続か中止かの鍵を握っている。

「‥教頭先生が‥‥いなくなればいいのに‥‥‥‥‥」 イライラ混じりにぼくは、そんな言葉を呟(つぶや)いていた。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (137)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その二十四

高木セナの『夢の話』を聞いても、ぼくは別段驚きもしなければ動揺もしなかった。話の内容が、いつもの彼女のそれより随分と抽象的で分かりづらかったせいかも知れない。
「ぼくは‥‥おとなになっても、バスは運転しないと思うよ‥‥」そんな言葉がつい口を衝いて出た。

彼女の見た夢の内容はともかくとして、彼女が最初に口にした『ヒカリくんは何かを隠してる‥』という指摘は当たっていた。それには正直に答えようと思った。
ぼくは、拾い上げたままでまだ手の中にあった例の『指』を、手を広げて高木セナの目の前に差し出した。「確かにみんなに隠していた事はある。これが何だか分かるかい?」
竦(すく)めていた首を伸ばし、高木セナはそれを凝視した。
「‥‥‥‥ゆ‥び?」消え入りそうな声で彼女は答える。びっくりして叫びだしたり目を背けたりすることはなく、身動(みじろ)ぎひとつしないそんな高木セナの反応は、ぼくの予想通りだった。
「驚かないのかい?‥‥やっぱり君は変わってるよ」ぼくは常(つね)日頃から、彼女が他の子たちとは全く異質の感性を備え持っていると考えてきた。そして、間違いなくそれがぼくの、彼女に対する最大の興味だった。
「驚いてるよ、驚いてるよ、‥‥‥驚いてる‥」彼女の瞳の大きな両目が、ゆらゆらと揺れた。
「この指は、足元の草むらの中で見つけたんだけど‥‥、十中八九、水崎先生の手から切り落とされたものだ。ぼくはその事を先生にも、モリオやツジウラ ソノにも、誰にも言わなかった」
「どうして?‥どうして?」
「みんなに言って騒ぎになったら、遠足がたちまち中止になってしまう。それが嫌だった‥‥」
高木セナがぼくを不思議そうに見た。明らかにぼくの説明に納得した様子ではない。そして、「もう‥‥人が、水崎先生が‥死んでいる‥‥のに?」と、ぎりぎり聞き取れる擦(かす)れた様な声で言った。

「死んでるかどうかなんてまだ分からないさ!水崎先生がどうなって今どこにいるか、それをこれから確かめようとしていたんじゃないか!」思わず語気が荒くなった。ぼくは苛立っていたのだ。
「時間がないんだ!君はもう芝生広場に戻りなさい」今までで一番身を竦めた状態になった高木セナに、ぼくは言い放った。

怖ず怖ずと後退(ずさ)りして行く高木セナ。そんな彼女に向かってぼくは、注意喚起の意味を込めてこう付け加えた。
「水崎先生の指を切り落とした何者かの存在を忘れてはいけない。そいつは確かに存在していて、今もその辺の茂みの中に潜んでるかも知れないんだ。‥ちなみに‥‥林の道で君の腕に傷を負わせた犯人も、同じヤツだとぼくは考えてる」

次回へ続く