悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (38)

第一夜〇タイムカプセルの夜 その二十三

俺は自分の机に静かに両手をついてみた。すぐに腰かけなかったのは、椅子が思ったよりも小さく窮屈そうに見えたからだ。

「あ‥‥」委員長が声を漏らした。
彼女を見ると、天井に目をさまよわせ聞き耳を立てている。
「ど‥どうした?」
「‥‥・気のせいかしら‥・校舎の中の騒めきが、一瞬戻ってきたみたいに感じたの‥‥」
校舎の中に身を潜め、いたずらを仕掛けている幻影のような子供たち。委員長に叱りつけられ、すっかり鳴りを潜めていた彼らがまた蠢(うごめ)き出したと言うのだ。実際、俺が机に手をついた瞬間、教室の外の空気が独特の密度を持って廊下側の窓や壁をピシッと揺らせた気がした。
「ねえ!その椅子に座ってはだめ!もしかすると彼らは、あなたが来たことに今やっと気がついて騒ぎ始めているんだわ。あなたを歓迎して動き出したのよ」
「歓迎だって?」
「あなたが校舎を埋めた張本人なら、あなたこそがここを統(す)べる者なのかも知れない。校舎の中を彷徨(さまよ)う彼らの存在は、小学生の頃のあなた自身の投影のような気がする。あなたは彼らのやってることに理解を示していたもの。つまり、彼らにとってあなたが帰って来たことには大きな意味があるの。まるで王様が帰還したみたいにね‥‥。その椅子は玉座なのよ」
委員長の言っていることはすぐには理解できなかった。しかし、俺は取りあえず机に突いた手を引き、自分の席から離れた。すべてを思い出すきっかけになりはしないかと考えていたことだが、何か厄介(やっかい)な事態を招く可能性があるのならご免だ。

俺と委員長は、しばらく押し黙ったまま成り行きを見守った。
委員長の洞察と咄嗟の判断は正しかったようだ。教室の外の空気が、また静寂さを取り戻していた。
安堵とうんざりが綯い交ぜ(ないまぜ)になった感情で、俺はひとつため息を吐いて言った。「‥‥あいつらが俺自身の投影だとは思わないがな‥‥・」
「あら、そう?あなたの彼女のかおりさんだっけ、彼女もあなたは子供みたいないたずらが好きだって言ってたじゃない」
「か、かおりだあ?あいつはテキトーなこと言ってるだけだし。それにもう彼女じゃないから‥‥」委員長の口から、いきなりかおりの名前が出て来たので驚いた。そう言えば校庭にいた時、ふたりでこそこそと話してたっけ‥‥‥初対面のはずなのにと不思議に思っていた。
「かおりと‥何話してたんだ?俺の悪口か?」
「彼女が一方的に話してくれたのよ。色々と言ってたけど、決して悪口ではなかったわ。もしかしたらあなたと別れた理由だったかもしれないけど‥」
「な‥・何だよ?」
「時々、あなたが何を考えてるのか分からなくなるって言ってたかな?」
「ふん‥女がよく言いそうな台詞(せりふ)だなぁ」
ずっと憧れていた女性とする会話にしては滑稽だったが、こんな奇妙な状況下でする会話にしては平凡だった。

「くせ毛の部分の髪を触ってると‥‥触ってるだけなのに‥‥・急に不機嫌になって怒り出す‥‥とか‥‥・」
「え⁈」
「どう?心当たりない?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
この時、俺の記憶の欠落部分の輪郭だけが一瞬、逆光のシルエットのように覗(のぞ)けた気がした。
それは、ジグソーパズルの最後のワンピースが嵌まる前の瞬間と言うより、行方知れずになっていたひと塊ほどのピースが、突然バサリと机の上に降って来た感覚に似ていた。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (37)

第一夜〇タイムカプセルの夜 その二十二

翌日、委員長は学校に来なかった。

朝、先生が教室に入って来るなり委員長の欠席を告げ、副委員長である山崎に彼女の代行をするよう命じた。
「きり-つ!」「おはようございます」
山崎の号令で一日が始まった。俺はその日一日を、針の筵(むしろ)に座った心地で過ごすことになった。
委員長が休んだ理由は分からなかったが、おそらく俺のせいだ。そうに決まっている。このまま委員長が学校へ来なくなったらどうしょう‥‥‥‥‥そう考えていると、何も耳に入らないし手につかない。
気を紛らわそうと視線をさまよわせていると、誰かが目を逸らせた気がした。誰かが‥‥‥俺の様子を窺っている気がした。

こんな状態がいつまでも続いたら、とてもやっていけない‥‥‥‥‥
そう思い知らされた次の日、委員長は普段通りの様子でちゃんと登校して来た。
頭にヘアバンドはなかったが、何種類かのヘアピンで両耳が見える感じに髪をまとめ上げていた。はげを隠しているとは思えないほどおしゃれに見えた。
俺は心底胸を撫で下ろした。
ただ‥‥彼女に近づいたり、目を合わせたりすることが出来なくなっていた。気を引くような目立つ行動はやめた。もちろん、虫を仕掛けることはきっぱりとやめにした。
結局その時から小学校を卒業するまで、俺は委員長の1メートル以内に近づくことはなく、一言の口も利かなかった。

「‥‥‥‥‥‥‥」
「何か思い出してたのね‥‥」
黙り込んでいた俺の顔を、委員長が覗き込んでいた。
確かに思い出していた。今さら思い出したくもない記憶を‥‥。
辛く切ない記憶である。しかしこんなことを葬り去るために、俺はわざわざ校舎を丸ごと埋めて見せたと言うのか?‥‥‥‥‥

「話してみてよ‥」
「いや‥‥大したことじゃないんだ」
「‥‥‥そう‥」委員長はやけにあっさりと引き下がった。そして、気を取り直した様子で、「だったら、ポケットにある紙を見せてよ」と言った。
委員長はやっぱり忘れてなかった、隠して正解だったと思いながら、俺は即座にズボンのポケットの裏地を引っ張り出して見せた。「どうやら無くしたみたいなんだ。途中の廊下で落としたのかも知れない‥」とごまかした。
「‥でも覚えてるでしょ?なんて書いてあった?」
「‥‥・それは‥女子にはすごく失礼で下品な言葉だったんで、口にしたくない」
「ふーん‥‥‥あなたって意外と狡猾なところがあるのね‥‥‥‥」
委員長はやっぱり鋭い。俺の嘘はたぶん全部見抜かれてる。
委員長の視線から逃れるためわざとらしく教室を見回し、彼女から離れていった。
ポツンと空いた席が一つ‥‥‥やはりそこに目が止まった。俺の席だ。

まだ‥続きがある‥‥‥‥空席を見ているとそんな予感めいたものが頭を過(よぎ)った。
徐々に思い出して鮮明になっていった記憶だが、完全に忘れていたわけではない。嫌な記憶だったから、ただ遠ざけていた程度のものだ。
本当に忘れたくて校舎と一緒に地中深く埋め、俺自身が未(いま)だに思い出すことを許していない記憶‥‥‥そんなものがまだあるのかも知れない‥‥‥‥‥。

俺はゆらりと、自分の席に近づいていった。
俺が今あの席に座ったら‥‥‥、空席を埋めたなら‥‥、俺もこの人形達の一員になって、あの頃に戻るのだろうか‥‥‥‥‥‥
そしてすべてをを思い出し、俺への裁きは終わる‥‥‥のだろうか‥‥‥‥‥‥
俺はそんなことを考えていた。

次回へ続く