悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (94)

第三夜〇流星群の夜 その八

「‥だったら‥‥石の様になった人たちはみんな、死んでいないと言うこと?」
彼女は父親の話に、思わずそう問いかけたらしい。

「父さんはそう考えてる‥‥‥。まるで何かをやり過ごして羽化を待つ‥‥蛹(さなぎ)みたいに‥‥‥‥‥」
「サナギ?‥」
「ああ‥・そうだ‥‥。そうなんだ。父さんは若い頃、純粋な好奇心から母さんと一緒に、アサギマダラと言う海を渡る蝶(ちょう)を追いかけて沖縄まで行ったことがある。沖縄の島々にはアサギマダラの他に、固有種のオオゴマダラやリュウキュウアサギマダラなどがいてね、その内の一つの興味深い生態を知ったんだ」
耳にするのが今のこの状況でなかったなら、父の話はきっとロマンチックに聞こえたことだろうと彼女は思った。
「毎年台風のシーズンには、沖縄の島々は、発達途中の強い勢力を持つ台風の脅威にさらされる。蝶の蛹がいっせいに羽化したタイミングで台風の直撃を受けたなら、全滅の危機に陥るだろう。ところが蝶は、種としてそのリスクをちゃんと把握していて、時期をずらして羽化する蛹が必ずいくらか存在し、全滅を回避するらしい‥‥‥‥‥」

彼女の父はここでしばらく間を置いて、彼女を真っすぐ見つめ直してこう続けたそうだ。
「父さんはこの先‥‥近い未来に、蝶にとっての台風みたいな、人類にとって全滅の可能性のある一大事が地球に起ころうとしている‥‥・そんな気がしてならないんだ。だから石の様になった人たちとはつまり、全滅を回避するために『時間の流れ方の違う蛹』になって、それをやり過ごそうとしている存在なのかも知れないと‥・考える様になったんだ」
彼女は、この時ほど父のイマジネーションに感服した事はなかったと、後に僕に語った。

さらに彼女の父は、所謂(いわゆる)『暫くして遺体から出始める放射線』への疑問も、やはり蝶に例えて説明を試みている。
「オオゴマダラの蛹は金色で‥・、幼虫の色も際立つ白黒の縞模様に赤い斑点が並んでいる。これは毒を持つ生き物によくある『警戒色』で、つまり幼虫は、アルカロイドを含んだ植物の葉を食べて育ち、体内にその毒素を貯め込んで、他の動物などから捕食されることを防いでいる。‥‥もしかしたら『石の様になった人たち』から出始める放射線は、『警戒色』と同じ意味合いで『石の様になった人たち』の体を守ろうとしているのではないだろうか。もし放射線が出なかったら、石の様になった全ての人たちの体は『遺体』として扱われ、焼却したり溶かしたりが試され、それが無理だと分かった後にはそこら中の土に埋められたり、海などにも投棄されたかも知れない。これは、時が経っていつか彼らが元の時間の流れを取り戻した場合、彼らの生命を脅かす結果に繋がりかねない‥‥‥‥‥」
実際、彼女の父が予想した通り、『遺体』として認識されている『石の様になった人たち』の体は、放射線が確認されてからは慎重に扱われている。ガラス固化体として体全部を閉じ込め、地中深く埋める案も出たが、あまりにも対象が多すぎて予算が組めず、実行不可能な空論に終わった。現状はと言うと、『死亡者』が続出してチームの維持ができなくなり試合の予定が組めなくなったプロスポーツのスタジアムなどが政府に借り上げられ、特別なシートで覆われて、日々増加していく膨大な数の『遺体』の集積場、名目上の仮置き場となった。無論、その周辺数キロは行動制限区域に指定されている。

父親の話を一通り聞き終えた彼女は、取り乱していた気持ちが幾分落ち着いてきているのを感じた。ベッドに歩み寄り、そこに横たわる母親の体にそっと手を置いた。
「お母さんの体からも‥‥‥‥もうすぐ放射線が出始める?」
「ああ‥‥‥たぶん」彼女の父は、静かにそう答えた。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (93)

第三夜〇流星群の夜 その七

「母さんは‥‥、おまえや父さんとは違う時間の流れの中を生き始めたんだ」
ベッドの上で硬くなっていく母の体の傍らで、彼女の父は自らが考えている「現象」について、一人娘である彼女に語り始めた。

「父さんは‥‥、最初の情報に接した時から‥‥、その報告された事象を『病気』と呼ぶことに違和感があった‥‥。こう言う表現は奇妙に聞こえるかも知れないが、犠牲者とされるすべての人の症状と経過が、みんな同じ単調な曲線を描いたグラフを見ているみたいな印象を受けたし、死にざまにしてもただ石の様に硬くなって心停止の状態が続いただけで、どこまでが生きていてどこからが『死』だったのかも結局不明瞭ではないのかと思ったんだ。感染と言う観点からも、その経路をたどれないランダムなまったくの脈略のなさを感じる。もしかしたら‥‥今世界を席巻(せっけん)しつつあるこの『病気と呼ばれている現象』には、人類の行く末にとっての、何か途轍(とてつ)もない意味が秘められているのではないか‥‥‥、そんな気がしたんだ。そう考えずにはいられなかった」

彼女が僕といる時、たまにではあるが彼女の両親の話が出た。印象的だったのはその話題の中での彼女の父に対するリスペクト感で、特に彼の洞察力には少なからぬ憧れの感情が滲(にじ)み出ていた。
だから、この母親のただならぬ事態の中でも彼女が取り乱さず幾分冷静でいられたのは、父親への信頼があったからだろう。
彼女の父は続けた。
「もし‥自分と他者との間で、時間の流れ方が少しずつズレ始めたら、いったいどんな事が起こると思う?」
「‥‥‥‥‥‥‥」彼女は答えられなかった。
「映画に登場する超人的な能力を持ったスーパーヒーローを思い出してごらん。彼が、発射されたマシンガンの弾を素手で一つ一つ掴んで床に払い落とすシーン。周りにいる普通の人間達には、スーパーヒーローのそんな動きが速すぎて見えない。今度はスーパーヒーローの目線から描写されると、周りの普通の人間達全員が時間が止まったみたいに動いていないんだ。まるで石にでもなった様にね‥‥‥‥」そう言って彼女の父は、ベッドで横になっている母に目線をやったそうだ。「あ‥・ああ!」小さな驚きの声を漏らして、彼女もやはりベッドの母を見た。

「父さんもおまえも超人ではないから、速く動いているわけではない。変化があったのは母さん自身の時間の流れだと思う。最初はみんな、同じ時間の流れの中にいた。そして何かを境に‥・時間の流れがズレ始めた。母さんの1秒が我々の2秒になった。時間の流れのズレはどんどん進行していく。母さんの1秒は我々の5秒になり、10秒になり、1分になった。我々には母さんの動きが緩慢に見えてきて、母さんはと言うと、我々の動きについて行けず自分が鈍い動作をしている錯覚に陥(おちい)る。倦怠感を訴えるのはそのせいだろう。さらにズレは進行し、母さんの1秒は我々の1時間になり、1日になり、1ヶ月‥、1年へと‥なっていく‥‥‥‥‥」
彼女の父はここで間を置く様に、ふたたびベッドの上の母親を見た。
「石の様に硬くなった今の母さんの‥‥数秒かかってする動作を確認するには、心臓が一回鼓動する音を確認するには‥‥‥、我々は途方もない時間を待たなければならないだろう‥‥‥‥」

次回へ続く