悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (218)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百三

全身から力が抜けていき、ただ立っているのがやっとといった茫然自失の‥‥、そんな喪失感。
気がつけばさざ波のごとく始まって、やがてはすべてをのみ込む大波となって一気に押し寄せて来る‥絞めつける様な悲しみ。
僕と妻は、『やはり自分たちは、大切なものを失ってしまったのだ‥‥』と途方に暮れ、二人そろって涙を流しながら、その場に座り込んでしまうのだった‥‥‥‥‥

何処へも踏み出せないし、何も為せない。ただただ疲弊していくだけの毎日が、過ぎ去って行く。
当然、このままではいけないと分かっていて、『何とかしなければ‥』とは考えるが、『何とかしようとして、何になる?』とか『何とかしたなら、娘が生き返ってくるのか?』などと顔を背けてしまう。
人は言う。「亡くなった娘さんのためにも、しっかりしないでどうするんですか」「この先の人生はまだまだ長いのです。新しい生きがい、新しい幸せがきっと見つかります」‥と。
しかし、妻はともかく、僕の中には、ソラの形をした『ソラの空白』が歴然と存在していた。そして、その空白が埋まらない限り、今のこの状態は僕が死ぬまで続いていくだろうという事は分かっていた。的確なカウンセラーの言葉や厚い信仰が、その空白を埋める方法を指し示してくれるかもしれないと時々考えたりはしたが、結局僕はそれを望まないでいる。
なぜなら僕は、だんだんとその空白を、『ソラの存在』と等価のものとして、大切にしようと考え始めていたからだ。たとえそれが、自分のこれからの残された人生を、棒に振ってしまう結果になったとしてもだ‥‥‥‥‥

ただ、妻には、僕と同じ『まね』はしてほしくはない。彼女には、強くなって今を乗り越え、いつか心安らぐ時を手に入れてほしいと願っている。そのためには、どんなことでもするつもりだ。

娘の死後の‥『ソラを失ってしまったという自覚』が、自分の心の真ん中に『ソラの空白』を出現させたものであろうか‥‥。そんな『ソラの空白』を、この先損ねることなく、『ソラの空白』とまるで心中でもするが如(ごと)き覚悟を決めた僕だったが‥‥、いつしかそれがまったくの予期せぬ感情を呼び起こしていくきっかけになっていこうとは‥‥、僕自身も『その時』まで気づかなかった‥‥‥‥‥‥

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (217)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百二

とっさの判断で分岐通路へと飛び込んで身を潜め、そこから、クラスの子供達数人と風太郎先生が直線通路を左から右へと通り過ぎて行くのを見送ったぼくと高木セナだった。
そして、少しの間を置いて彼らの後をつけるべく、ぼく達も直線通路へと飛び出して行ったわけだが‥‥

「え?!!」

飛び出して右に曲がったすぐの場所に立っていたのは、とうに通路の先へと歩を進めていたはずの風太郎先生だった。

ぼくと高木セナは、凍りついた様に立ち止まる。
風太郎先生は、こちらに背を向けたまま黙って立ってはいたが、すでにぼく達の存在に気づいていて、明らかに、ぼく達が直線通路に現れるのを待っていたという態勢だった。

「ふ‥ゥ」 ゴクリッ‥ 「風太郎‥ 先生‥‥」
ぼくは、唾(つば)を飲み込んでから、やっとの思いで声を絞り出した。
だが、後ろ姿の風太郎先生からは、反応はなかった。
「‥せっ 先生?」今度は上擦った調子で、高木セナが声をかける。
しかし、やはりしばらく待ってみても、何の返答もない。

ヒクッ‥ ミシㇼ‥
その時である。奇妙な音が、微(かす)かに漏れた。
そして風太郎先生が、いつの間にか、こちらに振り向いていた。
クチャッ‥‥
いや違う。彼は振り向いてなど、いなかった。
顔は確かにこちらを向いたが、両肩と背中は微動だにせず、そのまま後ろ向きの状態で‥、まったく変化していなかった。
つまり、首の付け根から上の部分だけが、百八十度回転して‥‥、こちらに顔を向けたのだ。
つまりそれは、人間の為せる動きでは‥‥なかった。
しかし、ぼくは咄嗟(とっさ)に一つの解釈へと辿り着いていた。もともと切れた首が胴体に乗っかっていただけで‥、その首だけが根無し草の様に回転したのだと‥‥‥‥‥


一周忌が過ぎ‥ すでに、三回忌も済ませていた‥‥‥‥
娘が、僕と妻の前から消滅し、たった一つ残していった『ソラ』という名の空白の‥その輪郭をなぞるだけの悲しい時間が、虚しく過ぎて行った。
描きかけていた未来の風景が搔き消され、生きていくことの意味を見失ってただ‥疲弊して行く日々。仕事にも身が入らずミスばかり繰り返し、人込みを嫌ったりクリスマスを呪うようになっていた。
そういう毎日を何とかやり過ごしながら、身に染みて理解したのは‥‥、悲嘆と後悔からは何も生まれてこないということ‥だった‥‥‥‥‥

次回へ続く