悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (220)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百五

お‥まえら‥ みんな‥‥ くたばっち‥まえ!

その声が聞こえた瞬間‥ 僕は反射的にキョロキョロと周りを見回し、誰かいないか確かめていた。
しかし勿論、誰もいなかった。

「‥‥今のが 独り言‥ だった‥のか‥‥‥‥」僕は意識的に、ゆっくりと呟いた。ひとつひとつの言葉の『出処(でどころ)』を確認する意味を込めて‥だ。正真正銘の独り言だ。
キッチンに立つ妻の様子を窺うと、彼女はこちらに背を向けたままだった。今の『正真正銘の独り言』も、その前に『聞こえた言葉』も、両方とも聞こえなかった様だ。

声に驚いたのは、確かだった。だがそれは、録音された自分の声を初めて聴いた時に感じた『どこか納得できない違和感』といった程度のもので、『まったく信じられない驚き』ではなかった。
しかし一番の問題は恐らく、自分自身で制御できていない言動が存在しているのに気づいてしまったことだろう。その部分で少なからず旋律を覚えていた。

娘が‥ 死んでから‥‥‥
自分はやはり‥病み始めているのかも‥ 知れない‥‥‥‥‥‥

僕は脳天からつま先まで、体全部の力を抜き、ソファーに身を委(ゆだ)ねた。そして天井を見上げ、「‥‥おまえらみんな くたばっちまえ‥‥ か」と、聞こえた声を反芻(はんすう)してみた。正真正銘の独り言であると、いちいち自分に確認を取りながらのこと‥‥だったが。

反芻したその『汚い言葉』。その響きの中には、どこか『世の中の何もかも、すべてのことにもう、うんざりしてしまった』と毒づく様なニュアンスが潜んでいる‥‥気がした。もしそれが当たっていれば、自分が漏らした言葉として、『受け入れられる』と思った。
さらに、言葉が、点けっぱなしのテレビから流れ出たニュースへの反応だったと考えると、なおさら受け入れられるとも思った。政治とカネの問題、自然災害に医療ミス‥だったろうか‥。加えて宗教対立とか国際紛争。互いの憎しみが報復となって永遠に連鎖していく戦争の、聞き慣れてしまった現地からの報告も流れていたろうか‥。やはり、もう沢山(たくさん)。何もかも、うんざりなことばかりではないか‥‥‥
そして、結局思い至る。結局行き着いてしまう。いくら戦争の無い平和な世界を強く願っても、来たるべき巨大地震に備えてあらゆる対策を講じても、理想の社会に一歩でも近づこうと惜しまず努力しても、そんな未来に、どこをどう捜しても娘『ソラ』の姿はない。なぜなら、彼女は死んでしまったから。藁(わら)にも縋(すが)る思いで娘を託した現代医学だったが、治療はおろか、症状の原因すら特定できないまま、娘はこの世から永遠に消え失せてしまったのだから‥‥‥‥

もう、娘の『ソラ』は存在しないのだ。中身のない輪郭だけの『ソラの空白』を、僕の心の真ん中に残していった‥まま‥‥‥‥‥

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (219)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百四

「‥また 独り言‥‥‥」 
「え?‥」

妻はキッチンで、遅い夕食の準備をしていた。
僕はというと、ダイニングのソファーに腰かけ、見るとはなしに、正面にあるテレビの画面へと顔を向けていた。テレビはいつからか電源が入っていて、低めの音量でその日の出来事を矢継ぎ早に報じていた。
「え?‥ どうしたって?」
妻の言葉を聞き逃した僕はキッチンに首を向け、カウンターの向こうで背中を向けたまま手を動かしている妻に聞き直した。

「また、独り言を言ってるって‥ 言ったの」
「えっ 僕がか?」 まったく身に覚えのない僕は、そう返すしかなかった。
ふぅ‥と聞こえるため息を漏らして、妻が振り返った。彼女の眉間には、皺(しわ)が寄せられていた。
「何だか‥すごく汚い言葉も聞こえたけど‥‥ 覚えてないの?」
「あっ ああ‥‥‥」 僕は惚(とぼ)けたわけではない。本当に、身に覚えがなかったのだ。
妻の顔が、呆(あき)れ顔に変わって、困ったわねといった様子でまたため息をついた。

「‥ソラが今もお家(うち)にいて‥ 傍で聞いてるかも知れないって‥‥ あなたが言ったのよ」妻が、テレビの低い音量に負けてしまいそうな、思いつめた様な囁(ささや)き声で言った。「だから、ソラが悲しむようなことは‥‥口にしないでちょうだい」
妻のその言葉は、アナウンサーの声を掻(か)い潜(くぐ)って、一言一句が僕の胸に突き刺さった。

「‥‥‥‥わ‥かったよ 気をつける‥」僕は答えた。そう答えるしかなかった。正直僕には全く自覚がなかったのだ。
実際、近頃独り言が増えてきているのは認める。『ソラへの想い』が四六時中(しろくじちゅう)頭の中にあるせいか、ソラを連想したり関係がありそうな事柄に出くわすと、ソラの名をぼそりと呼んでしまった。何度も何度も繰り返してしまうこともあって、そんな時は酷く悲しくはあっても、言葉を口に出してしまったことははっきりと自覚はしていた。
だが、妻が僕を非難している理由は、僕が時おり『すごく汚い言葉』‥おそらく『聞くに堪えない言葉』を発しているから‥らしいのだ。

僕はいったい何を口走ってしまったのかと、自分に問い質してみる。しかし、やはり何の心当たりも無い。さっきはぼんやりと、ただ、テレビを観ていたのだが‥‥‥‥‥

僕はテレビの画面に目を戻した。
ずっと続いていたニュース番組が終わろうとしていた。アナウンサーが、この時間伝えて来たニュースを、並んだ見出しをなぞりながら簡単に復唱する。トップは、不正献金問題で辞職した衆議院議員ポストをめぐる補欠選挙の直近の動向。次は、最近各地で頻発している地震と、来たるべき南海トラフ巨大地震との関連性についての独自取材による推論。そしてその次は‥、とある病院で起きた重大な医療ミス‥の‥‥‥‥‥‥

お‥まえら‥ みんな‥‥ くたばっち‥まえ!

その時、何の前触れもなく‥‥、僕の耳元で誰かの声が‥‥聞こえた。

次回へ続く