悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (46)

第一夜〇タイムカプセルの夜 その三十一

払いきれなかった虫たちが数匹、いやもっとだ。シャツやズボンを掻い潜り、直接地肌に噛みついた。
体のあちこちに激痛が走った。ちぎれた肉が浮き、血が滲(にじ)み出す感覚があった。
があうああああおあぁぁああああーぁあぁぁ
ダタタガタガタガタターン‼
俺は手足を激しくばたつかせ、机や椅子をなぎ倒しながら床を転げ回った。虫は握りつぶしても踏みつけても死ななかった。手でばらばらに千切っても、足で何度も何度もすり潰しても死ななかった。床に出来た粒と汁の染み痕は浮き上がる様にすぐに動き出し、千切り捨てていた他の足や頭などとくっ付いて、今まで見たことも無い姿の虫へと生まれ変わり(それが虫と呼べるものであるならの話だが)、ふたたび三度(みたび)と襲いかかってきた。俺はのた打ち回るより為す術が無くなっていた。
助けを、助けを求めた。
いったい誰にだ⁉教壇から冷ややかに見ている委員長に?それとも遠巻きに俺を包囲している粘土のクラスメートたちに?
違う。だが助けを求めていた。
助けてくれ!助けてくれ!この状況から俺を救ってくれる誰か‥・
「はう!」

ある考えが頭に浮かんだ。もしかしたら打開策になるかもしれない。
痛みを堪(こら)え、もがきながらも、俺は自分の席を目指して這い進んで行った。
体のあちこちから滲み出した血は、いつの間にか俺の全身を赤く染めていた。
「‥‥血まみれなのはあなたの心?‥‥それとも体?」委員長の呟きが教壇から聞こえた気がした。
辿り着いた。俺は椅子の足を掴んだ。俺の椅子だ。確か、委員長はこう言ったはずだ。彼らにとって俺が校舎に帰って来たことには大きな意味があると。まるで王様が帰還したみたいに。この椅子は玉座で、俺が座る事で彼らは俺の帰還に気づいて歓迎し騒ぎ出すと。
そうとも彼らだ!彼らなら助けてくれるかもしれない!小学生の頃の俺自身の投影、校舎の中に今も息を潜めている影の様な子供たち!
痛みを堪え、椅子の背のパイプを両手でしっかりと握った。力を込めて下半身を持ち上げる。そして体全部をその狭いスペースに預ける様に、俺はドカリと腰を下ろした。

ザワリ‥‥
瞬間、校舎全体の空気が震えた。

俺の行動の一部始終を教壇から眺め、今度は制止しなかった委員長が言った。
「馬鹿な選択ね。いくらあなたが王様でも、あの子たちがあなたを助けてくれると思う?あの子たちはただあなたを先頭にして、無意味で稚拙ないたずらをしていたいだけ。人の迷惑なんか何も考えないで、延々と、それこそ永遠に時間潰しのお遊びをしていたいだけなのよ。あなたはそれに付き合う羽目になるわ」

喧騒が‥‥スピーカーのボリュームを少しずつ上げていく様に徐々に近づき、大きくなっていった。
雑踏が、歓喜が、混乱が、闇夜に満ちる波の不気味さで教室の床を揺らし始めていた‥‥‥‥‥‥

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (45)

第一夜〇タイムカプセルの夜 その三十

ポツッと開いた粘土の穴が‥‥何であるのかを見極めようとする間に、その穴の周辺に十個程の新たな穴が出現した。驚いて、近づけていた顔を慌てて上げる。改めて人形の頭を見直してみると、穴はさらに増え百個近くになっていた。
プツッ‥プツプツプツプツプツプツプツプツプツプツツツツッッ—-—
「ひっ!」
俺は思わずのけ反っていた。無数の小さな穴は、粘土で出来た委員長の人形全身にあっと言う間に拡がっていった。
そして人形の体が一瞬、ぶるっと身震いしたように見えた。

俺が瞬きをした次の瞬間、事態は決定的に変動した。
すべての穴が出口だった。すべての穴が出口となった。すべての穴から噴き出したのだ。
穴から噴き出したのは、神経質に折れ曲がった幾多の細い線と毛筆で無造作に打った歪(いびつ)な形の点や奔放な「払い」で構成され、蟠(わだかま)りかけた煙の怪しさを纏(まと)った、それぞれがまったく不揃いな生き物たちだった。
虫。虫である。
蜘蛛‥飛蝗(ばった)‥芋虫毛虫‥蛾‥蝶‥蜻蛉(とんぼ)‥蟷螂(かまきり)‥蝉‥蝸牛(かたつむり)‥蛞蝓(なめくじ)‥蚯蚓(みみず)‥蟻‥蟻地獄‥‥‥‥‥‥
俺の知っている虫たちだったが‥‥‥ただ一つ違うところがあった。
それらは普通と違って、全部がどす黒かったのだ。
ウオォ—ン!ボドボドボトォオオ!バサササァァ—-
宙に舞い上がる一群があり、他の大部分は、机の上あるいは床に落ちて水の波紋状に拡がった。委員長の人形はと言うと、空気が抜けた風船がしぼむようにその形が崩れていった。
俺は虫を見て、生まれて初めて気味が悪いと思った。初めて、嫌悪した。

後退りしていた俺のつま先に、虫の先頭数匹が取りついた。
「くそぉお!来るな!」俺はそいつらを払い落とし、思い切り踏みつけた。
プチッ ブチッ ブチリ!
その行為が合図だったのかも知れない。教室じゅうに散らばろうとしていた虫たちが方向を変え、俺を目指して集まって来た。
ゾゾゾゾゾゾゾゾォ—ッ ブオァオオオォォォォォ——–
「なっ何だ⁉おい!」
翅(はね)を持つ虫たちが俺の上半身に纏(まと)わりついて来た。床を進んできたものたちは、俺の両足から我先にと這い上がって来た。
「うわああああああああ‼」
両手を振り回し両足を小刻みに動かして虫たちから逃れようともがいた。しかし、足がもつれて俺は床に倒れ込んだ。
ガシャーン ガララン! 近くにあった椅子と机が一緒に倒れて大きな音を立てた。

「フフッ‥無様ね‥‥」教壇から、委員長の声が聞こえた。
「何だとォ⁉」床をのたうち回りながらも、俺は問い質す。「これは罰か⁉これは君の復讐かあ⁉」
「いいえ違う‥・それはあなたに暇つぶしの遊び道具に使われた、虫たちの復讐じゃないのかしら?」
「‥‥くっ」俺は返す言葉が無かった。
その時、体のあちこちに痛みが走った。強靭(きょうじん)な顎(あご)を持つ虫たちが、俺を噛み始めたのだ。
「ぐあああ‼やめろおお‼」俺は体についた虫を片っ端からむしり取り、握り潰した。

「‥‥痛いのは心?‥‥それとも体?」委員長が呟いた。

次回へ続く