悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (213)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その九十八

「まるで‥ 赤い薔薇(ばら)の花 じゃないか‥‥」

そんなぼくの呟(つぶや)きに明らかに反応したのは、今までこちらに背を向けたまま動きを止めていたアラタだった。
彼はゆっくり‥、ゆっくりと振り向き‥‥、そして引きつったみたいに不器用に口角(こうかく)を上げて、声を出さずに笑って見せた。

「ア‥ラタ??」 ぼくはそんな彼を見て、顔をしかめていた。ぼくの肩口から覗き込んでいた高木セナも、「うっ」と小さな呻(うめ)き声を漏らした。
なぜなら‥‥、口角を上げることで曖昧に開いた‥本来なら白い歯が覗いているはずの口の中は『真っ黒』で、おまけによく見ると『その黒』はところどころが光りながら、もぞもぞと動いていたのだから‥‥‥‥‥

「おまえ‥・ 口の中に何か、入れてるのか?!?」気味の悪さからぼくは、いささか乱暴に問い質した。しかしアラタは、その質問が彼の耳に届くか届かないかの瞬間に、まるで体を支えていた芯棒(しんぼう)が抜けていくみたいに、足元から頽(くずお)れていった。

ズ‥ゥ ガクッ‥ガクガクリ‥ ドサ‥‥

「アラタッ!!」「アラタくん?!」そう叫びながらぼく達は駆け寄る。
アラタは、首と右肩だけを仕切り壁の根元にもたせ掛け、足と腰を地面に折りたたむ様にして倒れていた。そして、もうピクリとも動かなくなった。

「‥アラタくん‥‥ 死んじゃったの?」高木セナが、震える声で言った。
「‥‥‥分から‥ない」ぼくは答えた。だだそれだけで、呼吸や脈を調べる気はなかった。
目を落としていたのは、アラタの右手。動かなくなってからもその右手には、千切れたか切断された『彼自身の左腕』がしっかりと握られていた。傷口が開いたままでずっと『例の作業』を続けていたのなら、大量の出血で、死んでしまうのが当たり前なのであろう‥‥‥‥‥

「分からないんだ‥‥‥」ぼくは繰り返した。
「ど‥ どうして?」高木セナが戸惑った視線をぼくに向ける。
「生きてるか? 死んでるか? なんて‥‥、ここでは意味がない気がするんだ」
「え?」

「このハルサキ山、いや‥、『ヒトデナシ』という魔物の棲んでいるこの『ハラサキ山』では‥‥、死んだと思っていた者てもしばらくすると生き返ってる‥‥。生きているはずの者でも、まるで死んでるみたいに正気が無くなってる‥‥」
「‥つまり‥ それって‥‥‥」高木セナが強く見つめた。

「ああ‥ アラタだってこのままにして置けば、また動き出すかも知れない‥‥。どうやらここは、『そういう場所』らしいんだよ‥‥」

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (212)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その九十七

「アラタ!!」

ぼくは、大声を上げていた。
ぼくと高木セナの横を通り過ぎ、迷路の仕切り壁に向かって今も『切断された自分の左腕の断面を押し付けていく作業』を続けているアラタを、振り向かせたかったし、本来の彼へと正気付かせたかったのだ。

アラタが『作業』の手を止めた。しかし動かなくなっただけで、振り向かず、こちらに背を向けたままだった。

「聞かせてくれ、アラタ! 君は一体、何をしている?」ぼくはストレートに問い質した。
少し間を置いてみたが、アラタからの返事はなかった。
「このままだと君は‥‥ 間違いなく死んでしまうぞ‥‥」正気に返ってくれと願いながら、そう付け加えた。
しかしやはり、長く待ってみても彼からの反応は無かった。

その時である。さっきからずっと隠れる様にぼくの後ろについていた高木セナの、消え入りそうな独り言が聞こえてきた。
「え?‥」ぼくは振り向く。いつの間にか高木セナはアラタから目線を逸らし、首をやや上方に向け、仕切り壁の割と高い部分に疎(まば)らにしるされた、三つほどの『歪(いびつ)な赤い丸』を眺めていた。
「今‥ 何て言ったんだい?」ぼくは彼女が発した言葉を、もう一度聞かずにはいられなかった。
高木セナは、キョトンとした目でしばらくぼくの顔を見返していたが、「‥‥あの辺を見てたらつい、そんな風に思ったの。‥‥まるで、赤い花みたい‥‥だって」と言った。

「赤い花‥みたい??」ぼくは、その言葉を繰り返した。そして目を細め、彼女が眺めていた壁の同じ場所を見遣(や)り、すぐさま理解した。
迷路の通路には本来屋根が無い。しかしここは廃墟となって久しく、右と左の仕切り壁と仕切り壁の上をところどころツタが渡っていて、屋根の様に茂っていた。そのツタは、仕切り壁の内側にも当然垂れ下がって伸びて来ていて、壁の高い部分を中心に葉を茂らせへばりついていた。つまり、高い部分にしるされた幾つかの赤い丸は、本物の植物であるツタの葉と共に同じ視野に入り、高木セナに『まるで赤い花みたい』という単純な連想を引き起こさせたのだ。

「確かに‥赤い花‥‥‥ いや‥」
よくよく見てみると、血でしるされた『歪な赤い丸』は決して簡単なものでは無かった。『人の腕の断面』を押し付けたことを感じさせる、例えば、『中央に骨があり、肉と筋(すじ)がその骨をぐるりと巻いていて、一番外側に皮がある』といった具合に『多重的』なディテールを持ち、『スタンプのインク』となった『人の血液』はまだ生乾きで、奇妙で独特な艶(つや)と斑(むら)があった。

「いや‥ まるで赤い薔薇(ばら)の花 じゃないか‥‥‥」
ぼくは、そんなことを呟(つぶや)いていた。

次回へ続く