悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (181)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その六十六

ソラは、赤い紐が複雑に指に絡んだ状態の両手を前に差し出したまま、酷く悲しい目をして妻を見ていた。それは、『しばらく楽しんだ遊びの終わり』を惜しんでいるだけにしては、余りにも不自然な表情だった。

「ソラったら‥‥、そんなに悲しそうにしないで。母さん頑張ってみるから、あと少しだけ時間をちょうだいな」慌てた妻は、手を合わせながら懇願(こんがん)した。
その『夢の中』での妻は、そんなソラの過剰(かじょう)な反応を、幼い娘にありがちな癇癪(かんしゃく)の一つだと考えていて、どうにか宥(なだ)められると思っていたそうだ。だが、妻はそれが大きな思い違いだったと、すぐに知る。突然、ソラの両手の指に絡んだままになっている赤い紐が、まるでそれ自体生きてでもいるみたいに、ゆらゆらと揺れ、もぞもぞと動き始めたのだ。
「えっ! 何??」どうやったらソラの手から上手(うま)く紐を取れるだろうと、あれこれ考えていた妻は、我が目を疑った。

モソモソモソソ- ゾゾゾゾゾォォ--

ソラの差し出したままの両手全体が、あっという間に真っ赤に染まっていった。赤い紐が見る見る増殖し、何重にも巻きついて、ソラの手と指を寸分(すんぶん)の隙もなく埋めつくしたのだ。それはまるで、ソラが赤い紐で拘束され、両手の一切の自由を奪われたかの様に見えた。だがしかし、変容はそれだけで止(とど)まらなかった。赤い紐はソラの手をあぶれ、彼女の腕にまで伸びていき、物凄い勢いで巻きつき出したのだ。それが、ソラの前腕から上腕、肩まで達するのに、余計な時間はかからなかった。
「何? なに? 何? 何なの???」妻は慌てふためいた。気が動転してしまい、目の前で繰り広げられている事態に、なす術(すべ)もなかった。
赤い紐の増殖は止まっていない。ソファーに座っているソラの、胸、腹を覆い、腰、下腹部お尻から、両方の太股(ふともも)へと下がって、膝から踝(くるぶし)まで到達し、踵(かかと)から足指先を目指して、覆い尽くそうとしていた。
頭の方はというと、ソラがまるで真っ赤なマフラーを巻いているみたいに、紐が首から顎までをすでに覆っていて、そこからは、赤い色をした特別の根をもった植物が、その根をまばらな放射状に張り巡らしていく様に、ソラの顔面や髪の毛に向かって広がっていこうとしていた。
その時にはもう、ソラは悲しい表情をしてはいなかった。涙がこぼれ落ちた後の目を薄めに閉じ、徐々に意識が遠のいていく、これから眠りに落ちて行こうとしている穏やかな顔だった。

「ソラっ? ソラ? ソラ?‥ ソラ‥‥‥」妻は声をかけた。声をかけることしか、出来なかった。
赤い紐が、ソラの顔を、覆い尽くす直前‥‥‥‥ ソラは、すっかり目を閉じていた。
ソラが訴えるみたいに何回も口にしていた‥『終わる』の本当の意味が、わかった気がした。

すっかりソラの全身を包み込んだ赤い紐は、やがて空気に溶け込む様にゆっくり、ゆっくりと消えていき‥‥ 妻の目の前から、ソラをどこかへ連れ去った‥‥‥‥

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (180)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その六十五

何事だと思った。全身が緊張と不安に包まれた。
慌ててドアを開けた僕は、玄関で靴を脱ぐのももどかしく上がり込み、啜(すす)り泣きが聞こえてくるリビングルームに駆け込んだ。

妻は、リビング中央のローテーブルの横にうずくまっていて、カーペットの敷かれた床の上に額(ひたい)をすりつけ、両手を前に投げ出していた。まるで何かに祈りを捧(ささ)げるみたいな格好で、泣き続けていたのだ。
僕はすぐさま妻に駆け寄り、手を差し伸べながら声を掛けた。「どうしたんだ?! 一体何があった???」
妻は答えない。答える余裕がない。ただ泣き続けている。
「しっかりしろ!」僕は、カーペットに投げ出されていた妻の左手を取って、両手で包み込むようにして握りしめた。
握った僕の手の圧力を感じてか、妻の啜り泣きが、むせび声に変わっていった。そして途切れ途切れに、こう言ったのだ。

「ソ‥ ソラが‥‥ き‥えて‥‥ いった ‥の」

「もしかして‥、『夢』を見たのか?」
僕の問いかけに、俯(うつむ)いたままの妻の頭が、縦に動いた。
「どんな『夢』だ? いったいどんな『夢』を見た?」
妻の頭が上がり、涙でぐしょぐしょになった顔をこちらに向けた。悲しみに濡れた目が僕を見つめ、口が震えながら開いていった。言葉を吐き出そうとしていた‥‥‥‥
しかし、そこまでだった。『夢』を思い返すことで悲しみが再び押し寄せて来たのだろう。妻はいきなり僕の胸にすがり、顔を埋(うず)めて大きな声で泣き始めてしまった。


しばらく時間が経過した後(のち)、泣き疲れてぐったりした妻が語り出した『夢』の内容は、次のようなものだった。
夢の中でソラと妻は、リビングのソファーに二人向き合って腰かけ、『二人あやとり』をしていたと言う。
あやとりの紐(ひも)は只々(ただただ)赤く、その鮮やかな赤が、ソラの小さな白い手の指と、妻のやはり白い大人の指に交互に掛かり、絡め取られて、二人の間を何度も行き来していた。
紐の線が作り出す赤い図形は、出だしの『川』に始まって、『山』や『田んぼ』、『吊り橋』や『鼓(つづみ)』などと、取り合うごとに変化していく。複雑になったかと思えば単純に戻り、また複雑になってはまた戻るを繰り返していた。
「あなた‥上手ね」妻が、器用に指を動かして紐を取るソラを褒(ほ)めると、目の前のソラはニコリと自慢げに笑ったそうだ。「さあ、かあさん。取って」ソラがそう言って次に差し出した図形に、妻が目を戻すと‥‥、それは今まで見たことも無い複雑なものだった。
「えーと、これは‥‥」両手の指をさまよわせ逡巡(しゅんじゅん)する妻。
「さあ、早く取って。取れなかったら終わり」
「うーん、ちょっと待って。そう急(せ)かさないで‥‥‥」
「終わっちゃうよ」
「わかったから‥」
「終わっちゃう」
「‥‥‥‥‥」
「終わっちゃう‥てば」
「わかったから!もう少し考えさせて!」ソラの急かす声に苛々(いらいら)して、不覚にも語気が強くなってしまった。それに気づいて、「ごめん。もう少しだけ時間をちょうだいな」と言い直して、ソラの顔を見ると‥‥‥‥‥‥‥

ソラは、目にいっぱい涙をためて、ひどく悲しそうに‥‥‥、妻の方を見ていたそうだ。

次回へ続く