悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (202)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その八十七

ぼくは、地べたにうつ伏せた体を草に埋(うず)めた状態のまま、焦燥感に苛(さいな)まれていた。
動かせるのは両目の眼球だけで、その他の部分、手足の指一本にすら自分の意思がまったく伝わらない。こうして何もできないでいる間に、巨大迷路廃墟の中に誘い込まれたであろうツジウラ ソノの身には、想像もできない事が降りかかっているに違いない。
「ツジウラ ソノ! いやソラ! ソラだ!!」 さっきから何度、娘の名を叫び続けているのだろう? だが実際には口は開いていないし、声も出ていないのだから、叫んでいることにはならないのだろうが‥。

サク‥ ササ‥ サ‥
どうやったらこんな体の状態が解消されるのか、あれこれと考えを巡らせている時だった。後方の茂みのどこかで、人の気配がした。
ザサ‥ ザササ‥ ザサ‥ ザサ‥ ササササ‥‥
誰かが茂みの中を‥、だんだん‥こちらに近づいて来ている。それも‥、一人ではない‥ようだ。
ぼくは精一杯、耳を欹(そばだ)てる。実際には欹てられていないのかも知れないが‥。

ザササッ‥‥
さっき『風太郎先生』とツジウラ ソノが現れた場所と同じぼくの左後方、丈の高い草で覆われた茂みの陰から、まず一人目が姿を現した。
え???! 眼球だけを動かして、やっとの思いで捉えたその人物は、ぼくの度肝を抜いた。
雑木林の中で息絶えたはずの『葉子先生』だったのである。

そんなバカな!と我が目を疑うぼくをよそに、彼女はゆっくり平然と‥ぼくの左前方へと、真っすぐ巨大迷路廃墟に向かって歩いて行く。たっぷり血が染み込んでどす黒く変色したパーカーの背中が、痛々し気に覗けた。
さらに、彼女の後に続いて来た者達も姿を見せた。フタハとミドリだ。
遅れて、モリオとタスクも出て来た。タスクは捻挫(ねんざ)した足をかばって、モリオが見つけて来た木の棒の杖を不器用に突いていた。つまり、芝生広場南の雑木林の中で避難していた全員が現れたことになる。
葉子先生の息が絶えたと判断したのは大きな間違いで、彼女はただ眠っていただけだったのかも知れない‥と考えてはみたものの、葉子先生の出現はやはり不可解だった。どこかがおかしいのだ。
葉子先生だけではない。フタハもミドリも、タスクやモリオだって、迷路廃墟の外壁(そとかべ)に逆さまに吊るされている幾つもの腹を裂かれた死体は、既に彼ら全員の目に入っているはずだ。ところが彼らは平然としていて、声一つ上げない。仮に吊るされているのが『アトラクション用のリアルな人形』だと勘違いしてしまっても、何らかのリアクションは(女子や特にモリオあたりは)当然あるはずだ。

みんなも‥『催眠術みたいなもの」に‥‥ かかっているのか???
草の上で身動きが出来ないでいるぼくに誰一人気づくことなく、彼らは巨大迷路廃墟のすぐ前まで行き、そこから入口を捜してか外壁伝いに右に歩いて、結局『風太郎先生』ツジウラ ソノと同じ様に角を曲がって、出入り口のある外壁の東側へと姿を消して行った。

くそぉ! 動けぇ! 動けカラダァァ!!
この期(ご)に及んでなす術も無く、気を揉むことしか出来ないぼくだった。

「ひッ ひいィ!」
その時突然、うつ伏せのままのぼくの背後から、誰かが息を吞む声が聞こえて来た。

次回へ続く


悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (201)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その八十六

わぁらぁべぇはぁ みいたありいぃぃ  のぉなぁかぁのぉ ばああぁらぁ
童(わらべ)はみたり 野なかの薔薇(ばら)

きぃよぉらぁにぃ さぁけぇるうぅ  そぉのぉいいぃろ めえでえつぅ
清らに咲ける その色愛(め)でつ

それは‥‥
ツジウラ ソノが、巨大迷路廃墟の外壁(そとかべ)を前にして、突然歌い出したその曲は‥‥、ハルサキ山に来て‥水崎先生の携帯電話の着メロで何度も何度も何度も‥耳にし、そして何よりも、娘『ソラ』の思い出とともに今もある曲。ゲーテの詩をシューベルトの軽快なテンポのメロディーに乗せた名曲『野ばら』であった。
合唱部の一員であるツジウラ ソノは、遠足に来てすでに何度か披露しているその魅力的な歌声で、朗々(ろうろう)と歌い続ける‥‥‥


童はみたり 野なかの薔薇
清らに咲ける その色愛でつ
飽かずながむ 紅(くれない)におう
野なかの薔薇

手折(たお)りて往(ゆ)かん 野なかの薔薇
手折らば手折れ 思出ぐさに       
君を刺さん 紅におう
野なかの薔薇

童は折りぬ 野なかの薔薇
折られてあわれ 清らの色香(いろか)
永久(とわ)にあせぬ 紅におう
野なかの薔薇


ソラだ‥‥
ツジウラ ソノは本当に‥ソラだったんだ‥‥
ぼくはそう思った。
全身の力が抜け、知らぬ間に涙が両頬(ほほ)を伝って落ち、地べたの草を濡らしていた。

距離を取って前を歩いていた『謎の風太郎先生』が、歌い終えたツジウラ ソノの方に振り向き、無表情のまま、ひとつ頷いた。立ち止まっていたツジウラ ソノは、それが合図だった様に、再び歩き出した。
彼ら二人は、巨大迷路廃墟の南側の外壁に沿って右手に‥、おそらく回り込んだ東側の外壁の途中にある『出入り口』へ向かって、ゆっくりと歩き出した。

ぼくはと言うと、まるで催眠暗示にでもかかったみたいだった。立ち上がって後を追おうとしたが、力が入らず、まったく動けなかったのだ。「行くな! ツジウラ!」と叫んでみたが、声も出なかった。

声は出なかったが、何らかのぼくの気配を感じ取ったのだろうか? 南の外壁伝いに東側へと正に回り込もうとしていたツジウラ ソノが一瞬立ち止まり、振り向いて、明らかにぼくの方に視線を向けた。
ぼくはその時、ここに到着してからの彼女の表情を初めて見た。彼女は『風太郎先生』以上のまったくの無表情で、どろんとした目は一切の正気を感じさせなかった。ついさっき、辺りに歌声を響かせていた少女とは到底思えなかった。

「やっぱり‥ おかしくなってるんだ‥‥」ぼくは声にならない声を上げた。精神に異常をきたしていたから、幾つもの『腹を裂かれて逆さまに吊るされた死体』を目の前にして、あんなに平然と歌が歌えたのだ。
「それともあの『風太郎先生』に、催眠術でもかけられているのか??」

ぼくが1ミリの行動も取れないでいるうちに、『謎の風太郎先生』とツジウラ ソノは、外壁の南東角(かど)の向こうへと‥姿を消して行った。

次回へ続く

お詫び
前回(200回)は、文章が全く不十分な状態のままアップしてしまい、後に二回ほど大幅に書き直させていただきました。アップした直後にお読みになった方々、宜しかったら再度、前回分から読んでいただくことをお勧め致します。申し訳ありませんでした。