悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (8)

序〇糞(ふん) その八
丘の頂上で、女が歌っていた。

レース飾りのついた黒いワンピースのドレスを着て、ウエーブのかかった長い髪を風にさらしながら歌う彼女は、年齢は知れないがしっかりとした成人女性であった。

女が歌っている理由が理解できたのは、傍に停めてあった車椅子の取っ手に手を掛け、ゆっくりと押し始めたからである。
車椅子には、ローブをすっぽりと被ってうなだれた小柄な人物が乗っていて、女は恐らくこの同伴者の為に歌を披露していたのだ。

もう少し近づいて見ようと思い、男は頂上へ通じる最後の坂道へ向かう。登り始める場所では、一旦彼女たちの姿が視界から消えた。

「‥‥ねえさん‥‥‥」
思わぬ言葉が口から漏れた。
「生きていたのか‥姉さん‥‥」
知らない人格が支配しているのを感じた。頭の中を身に覚えのない記憶の断片が飛び交っている。
しかしながら、客観的にそれらを観察している自分の人格も、揺るぎ無く確かに存在していた。

この丘は いつか来た丘
ああ そうだよ

あと十数メートルで登り切れるというところで、頂上を仰ぎ見る男の視界に、車椅子とそれを押す女がゆっくりと現れた。どうやら男に気がついて、女の方から近づいて来たらしい。

女は、歌うことを中断すること無く、男を見下ろした。
その視線を受け、男の足が止まった。竦(すく)んだのだ。

女の双眸(そうぼう)は、すべてを見通したかのような輝きで世界を萎縮させ、或いはすべてを拒絶するような闇の色で、光をことごとく地に叩き落としていた。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (7)

序〇糞(ふん) その七
遠のいていた意識が、水面に向かってゆっくりと浮上するように焦点を結び始めた。

男は最初に、髪をなぶる風を感じた。
見ると、何処までも続く広大な草原を、風が渡って行く。空に日は無く、鉛色の重い雲が立ち込め、近づく嵐を予感させた。
男は、草原を左右に分ける赤土の一本道に立っていて、その土の赤がまるで血の色をしていたので、ここは恐らく日本ではないと思った。

もともとつま先が向いていた方向に歩を進めようとすると、何処からともなく声が聞こえた。いや、声には違いないが、どうも歌っている。途切れ途切れではあるが風に乗って、女性の歌声が確かに聞こえてくる。
どうやら遠くの歌声を、風が運んで来たらしい。そう考えて風上を判じてみると、今歩いて行こうとした正反対の方向。男は振り向き、首を突き出すようにして耳を澄ませてみた。

やはり聞こえる。血の色の道が真っすぐに続いて行く遥か前方。徐々に始まる勾配を登り詰めたその先に小高い丘が見えた。
男は歌声の正体を確かめたくなって、風上に向かって歩き始めた。
と‥・奇妙な感覚に囚われる。自分はそもそも、この先にある何かから身を遠ざけようとして道を下っていたのではあるまいか‥‥‥。

この ち は い か たみ ぃ
この ちぃは いつか たみちぃ
このみちぃは いつかきたみちぃ
丘に近づくにつれ、歌声が明瞭に聞き取れるようになり、男の記憶にもある懐かしい童謡の歌詞を紡いだ。

この道は いつか来た道
ああ そうだよ
あかしやの 花が咲いてる

あの丘は いつか見た丘
ああ そうだよ
ほら白い 時計台だよ

この道は いつか来た道
ああ そうだよ
お母さまと 馬車で行ったよ

あの雲は いつか見た雲
ああ そうだよ
山査子の 枝も垂れてる

歌声は続いている。
男が漸く、丘を見上げる位置まで辿り着いた時、その頂上に、歌声の主らしき人影を認めた。

次回へ続く