悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (10)

序〇糞(ふん) その十
「母さん‥‥‥」
後悔と自責の念の大波が押し寄せて渦をまき、男を飲み込もうとしていた。
それでも踏ん張っていられたのは、本来の男の人格が終始一貫して、客観的な足場をしっかりと保持し続けていたからである。

ポツリ、ポツンと、水滴が男の顔を打った。
鉛色の空が、ついに泣き出したのか。
‥と、その雨には色彩があった。
赤い‥‥まるで血のような赤色。
辺りが真っ赤に染まっていく。
男は、老女と車椅子を支えたまま天を仰いだ。しかし、赤い雨は空からではなく、丘の頂上から降り注いでいた。

丘の頂上には女が、歪(いびつ)なシルエットで立っていた。女には首が無くなっていた。
赤い雨は、女の胴体から勢いよく噴き出していた。

女の右手には、大振りのナイフが握られていて、自らの手で首を切り落としたのだと知れた。

この道は いつか来た道
ああ そうだよ

歌が聞こえている。
首の無い女が、歌い続けている。

降り続く血で赤くかすむ目を凝らして見ると、女の胸元に、文字通り皮一枚で辛うじて繋がった首が、逆さまにぶら下がって揺れていた。
首が‥・歌っていた。

男が絶叫した。
本来の男も、気が遠くなっていくのを感じた‥‥‥‥

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (9)

序〇糞(ふん) その九
この道は いつか来た道

男を見下ろしながらも、女は歌うことをやめない‥・

「‥姉さん‥‥一緒にいるのはやはり‥‥‥母さんなのかい?」
口を衝いて出た言葉は、男にとってもはや意外なものではなかった。
女は問いには答えず、ゆっくりと車椅子を前に押し出し、ゆっくりとその取っ手から手を離していった。
車椅子が大きく前に傾く。

ああ そうだよ
お母さまと 馬車で行ったよ

丘の頂上から、男が見上げて立っている場所に向かって、車椅子が落下し始めた。
最初はゆるゆると、徐々に速度が上がっていき、バウンドしながらガタガタと上下左右に大きく揺れだした。乗っているローブを被った人物も、まるで奇妙なダンスを踊っているかのように座席から体を浮かせ小刻みに跳ねまわった。
「だめだ!」
このまま加速していけば只事ではなくなる。
男は車椅子を止めようと、登り傾斜面を走り出した。

ダン!ダゴン‼
片方の車輪が何かに乗り上げ跳ね上がった。車椅子が宙に浮き大きく傾いた。
「母さん‼」

間一髪、男が身を挺して車椅子をねじ伏せた。両手でパイプの部分を摑(つか)まえ、足を踏ん張って全体重をかけて、その動きを止めた。
ローブの人物が慣性で前屈みのまま立ち上がり、男の右肩口に頭を乗せた。
被っていたフードが外れていた。
右に首を回した‥男の目前に‥‥顔があった。

死があることは何故か予見していた。しかしそこにあったのは、あまりにも滑稽(こっけい)な死であった。
すでに干からびきった老女の顔。目は落ちくぼみ、口は裂けたように大きく開いている。
最初、それらが何かは分からなかったが、見覚えがあった。編み棒である。
手編みに使う編み棒が、まるで前衛的なオブジェを創造したかのように、顔中無数に突き立てられていた。

次回へ続く

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