悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (14)

序〇糞(ふん) その十四
‥一歩‥‥次の一歩‥‥‥
男は音を立てないように、細心の注意を払っていた。
手が届く場所まで来ると、腰を屈めて手を伸ばす。
広口瓶を取る右手が震えていた。
瓶をゆっくりと傾け、左手で受ける。丸い塊数粒が転がり込むのを確かめて、しっかりと握りしめた。
少年は背を向けたまま、棒を動かし続けている。
上手くいったか‥・。男はフィニッシュでも決めるように、寸分たがわぬ元の位置に瓶を戻した。そして片足をそうっと引いて後退りを始め、止めていた息を吐き出す安堵感が生まれたその時だった。突然、頭の中に声が響いた。

「人間はいけねえ‥‥・」

男は、左手が何かに圧迫されるのを感じた。見ると、不気味な紫色をした大きな手が。男の左腕をがっしりと鷲掴(わしづか)みにしている。

男は大きく目を見開いた。いったい何者の手なんだ?
見開いたままの目で、その手がいったいどこから伸びて来ているのかを辿っていった。
太い腕があり、間接があって、岩の様な筋肉が盛り上がった二の腕へと繋がっている。男は瞬間、幼い頃昔話で見た、捕まえては人を食らう恐ろしい鬼の挿し絵を思い出した。
そして二の腕の先‥・不自然なねじれを見せて、背を向けたままでいる少年の前方へと回り込んでそれは消えていた。

「油断も隙もねえ‥‥・人間はこれだから、いけねえ」
頭に直接響いてくる声は紛れもなく少年のものだった。だったらこの紫色の手も少年のものなのか?‥‥‥・
男は、ずっと背を向けたまま微動だにしなくなった少年に向かって、何か言おうとした。たぶん言い訳をしようとしたのだ。しかし、言葉が出てこなかった。金縛りにあったように全身の身動きが取れなくなっていて、声も出せなかった。

「おいら達がいくら真っ当に付き合おうとしても、人間がこれだから何にもならねえ」

「ここはひとつ、しっかりと懲らしめねえとな‥・な‥・なあ!」
男の腕を掴んでいる大きな手に、力が込められた。

ギリっと音がした。
激痛が走った。あまりの痛みに耐えかねて、男は精一杯抗(あらが)おうとしたが、からだ全体がピクリとも動かなかった。

ミリっと音がした。
腕の肉がよじれ、潰れていく感触がした。男は「やめてくれ!」と叫んだつもりだったが、口は動かず、やはり声にはならなかった。

ミシリと音がした。
骨が砕けたのがはっきりと分かった。男は苦悶の表情で声を限りに叫んだ感覚だったが、表情筋は微動だにせず、声帯は一切の機能を忘れ去っていた。

男に残された選択肢は、一刻も早く、意識をなくすことだけだった。
男は目を見開いたまま‥失神した‥‥‥・

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (13)

序〇糞(ふん) その十三
「どっ、どういう事だい?」
男は戸惑った。そして同時に、少年が、少年の姿に見えるこの人物が、一体何者なのかという疑問がさらに強くなった。

「あんたは確かにいいお客になるに違いねえ。より強い刺激を求めて、次から次へとこいつを買い求めて下さるだろうからな」
「‥ああ、確かにそうかも知れない。それで、依存症にでもなるというのかい?」
「おいらが言いたいのは、こいつで見る悪夢は、人間が新しい技術で拵(こしら)えた映像やアトラクションを体験するのとは訳が違うって事だ。こいつを試すのは言わば、他人の脳が放流した混沌の水で出来上がった海原に、ちっぽけで無防備なボートを浮かべて漕ぎ出すようなものさ。あんたは刺激を求めてるわけだから、大波や嵐でも面白がって、転覆もせずに乗り越えちまうだろうよ‥‥・。だがな、あんたの精神のささやかな防壁であるはずのボートの底が少しずつ、ほんの少しずつ、腐食していってる事にあんたはきっと気付かない‥‥‥・」
「‥‥‥そして‥どうなるんだい?」
少年は男の表情をゆっくりと窺い、言った。
「何の前触れもなく、いきなり底が抜けて‥‥あんたは海の底に落ちて行く。恐らく二度と浮き上がってはこれまいよ‥‥‥」

男は、黙り込んだ。

「そういう人間がいたって話さ‥‥」

少年は作業に戻るため、徐(おもむろ)に立ち上がった。そして男に背を向ける際(きわ)、こう付け加えた。
「何もがっかりすることは無い、商品は適度に回してやる。その時はあんたの持ってる端末が、勝手に販売サイトに繋がるだろうよ‥」
「ほっ、本当かい⁈」男がにわかに色めき立った。
「ああ、あんたがここでこうしているのも何かの縁だ。悪い様にはしない‥・気長に待つこった‥‥・」

「‥・そうか‥‥待っていればいいのか‥‥‥・」男が、独り言の様に呟いた。

少年は早速新しい糞を見つけて、棒で突き始めた。
男は、少し後ろから少年の背中をぼんやりと見ていた。先ほどの悪夢の体験を、もう一度思い返してみる。
何と蠱惑(こわく)的な世界であったことか‥‥出来る事ならすぐにでも次を試したかった。これでは、美味しそうな餌の臭いだけ嗅がされて、お預けをさせられている犬の様ではないか、と男は思った。

「‥‥待てば‥いいのか‥‥‥・・」

ふと男がしゃがみ込んだ少年の尻の後ろに目をやると、ちゃんと中身の入った広口瓶が、蓋の開いたまま、草の上に無造作に置かれていた。
どうやら先ほど採取して手に持っていた塊を入れて、バッグにしまわずにそのままにしてしまったらしい。

男の視線が瓶に釘付けになった‥‥‥。

次回へ続く