第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その十三
歌曲『野ばら』は、ゲーテの名詞にシューベルトやベートーヴェンなどの名立たる音楽家が曲をつけたもので、複数のバージョンが存在する。
日本では、近藤朔風の日本語訳詞で歌われるシューベルトとヴェルナーのものが広く知られていて、同じ歌詞ながらそれぞれが異なる趣(おもむき)の二曲である。
ツジウラ ソノが今歌っていたのは、4分の2拍子の軽快な印象の、シューベルトが作曲したバージョンであった。
「ねっ、ねえ!」ぼくは思わず、駐車場に佇(たたず)むツジウラ ソノに声を掛けていた。
彼女はすぐに振り向いてこちらに身体を向け、驚いた様子もなく真っすぐな瞳でぼくを見た。
「あ‥‥」そしてぼくはその時になって初めて気がついた。転入して来たばかりのツジウラ ソノと二人きりで面と向かって話すのは、これが初めてだと‥・。
「ヒカリ‥‥くん?」
彼女はぼくの名をちゃんと覚えていて、他の女子達が呼ぶ様にぼくをそう呼んだ。
「あ‥・うん‥‥‥」
ぼくは、ツジウラ ソノの醸(かも)し出す雰囲気がやはりどこか『ソラ』を連想させる、と改めて思った。たぶんぼくはしばらくの間、彼女の姿をまるで呆(ほう)けた様子で眺めていたのだろう。彼女は小首を傾(かし)げて、怪訝(けげん)な表情でぼくを窺い始めた。
「あっ、ごめん。きっ、きみの歌ってた曲のことが、きっ、聞きたくて‥・」
「‥野ばら‥‥のこと?」
「あっ、うん。どうしてその曲を歌っていたの?」
ぼくの唐突な質問に彼女は表情を少しくずし、駐車場の柵の外、草木が生い茂る北側の広がりを漠然と指差してこう言った。「あっちの方から突然、野ばらの曲が聞こえて来たの‥‥。それでつい‥‥歌っちゃった‥」
やっぱりそうか!前に聞こえて来た微かな謎の音も、さっき聞こえていたメロディーも、野ばらの旋律だったのだ。
「それにしても君は、よく野ばらの詩と曲を知っていたね。合唱部で教わったの?」
このぼくの質問にツジウラ ソノは、なぜか虚を突かれたような表情を浮かべた。そして明らかに戸惑いながらこう答えた。「誰にも‥‥教わっていない‥‥‥。気がついたら‥‥知っていた‥‥‥‥の‥」
「気がついたら‥‥知っていた?」僕はその不可解な答えの彼女の言葉を、思わず繰り返していた。
とその時である。
「え?」
「あっ」
唐突にふたたび、広がる茂みのどこかから、野ばらのメロディーが聞こえ始めた。
ぼくは急いで駐車場の柵まで走って行って、そこから身を乗り出す様にして、聞こえてくる場所を特定しようと試みた。そして必死で耳をそばだてているうち、音が電子音で、『携帯の着メロ』ではないかという考えが頭を過(よぎ)った。
心配顔の葉子先生が、水崎先生に連絡を取ろうと携帯電話を何度も掛け直している場面が‥‥‥頭の中に浮かんでいた。
次回へ続く