悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (161)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その四十六

最初に「木に登ろう‥」と言い出したのは、実は、背中に傷を負っている葉子先生だったそうだ。

それはもちろん、『ヒトデナシ』の突然の出現から取り敢(あ)えず身を守るためでもあったが、もう一つ、できるだけ高い所から芝生広場を見渡し、どこで何が起こっているのかを把握するという目的もあった。
それだけ芝生広場のあちらこちらから『子供の声色(こわいろ)を使った奇妙な声』が聞こえて来ていたし、いたる所で微かに『何かが蠢(うごめ)いている不可思議な気配』がしていた。
「今は‥‥下手に動かない方がいい」と、葉子先生は、傍らにいたフタハとミドリに言い聞かせた。「私達が今相手にしている『ヒトデナシ』は、もしかしたら本当に『人(ひと)ではないもの』なのかも知れない‥‥‥‥」


林の中の道を急いで戻り、やっとこさ雑木林を抜けて芝生広場に足を踏み出そうとしたモリオとツジウラ ソノの二人であったが、突然どこからともなく聞こえて来た囁(ささや)き声に、思わず背筋を凍らせた。
「止まって‥‥ 行っては ダメ‥‥‥」

「なッ‥何だ?」顔を強張らせて辺りを見回すモリオ。ツジウラ ソノは警戒して、その場に身構えている。

「ここ‥ ここよ‥‥」と囁く声は続けた。

「どこだ???」ふたりして、首を巡らす‥‥‥‥

「あっ!あそこ!」ツジウラ ソノが、たった今後にして来たばかりの背後の雑木林、その中の一本のクヌギの木を指差した。振り向いてモリオも見る。仰ぎ見る。
大きなクヌギの木の上である。茂らせた葉を搔き分けて、人の顔が覗いていた。
「葉子先生!!」ふたりは叫んだ。
木の上にいた葉子先生は人差し指を唇に当て、モリオとツジウラ ソノに大声を出さない様にサインを送って来た。葉と葉の間からフタハとミドリも顔を出し、ふたりに戻って来いと手招きしていた。


「葉子先生の説明で木の上にいた理由が分かって、その後私たちも木に登って隠れたの‥‥‥」ツジウラ ソノが言った。
「そうして広場の様子をそこからずうっと見てて‥‥、だいぶたってからだったな、おまえがひょっこり現れたのは。こっちに向かって歩いて来るのが見えたってわけだよ‥‥」と、最後にモリオがぼくの顔を見ながらそう言って、『ぼくが芝生広場から離れていた間の出来事』をみんなして語り終えたのだった。
ぼくは、自分だけが知っている情報と相(あい)まって、改めて『ヒトデナシ』の得体の知れなさを感じ取り、それゆえに生じる事態の深刻さを‥‥‥思った。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (160)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その四十五

「ツ‥ ツジウラ ちょっと待った!」
驚いたモリオは思わず、前を走るツジウラ ソノを呼び止めていた。

ツジウラ ソノは振り向いて足を止める。声をかけてきた当のモリオはすでに走るのをやめていて、彼女から顔を背(そむ)けたままの状態で、頻(しき)りに後方を気にしていた。
「どうしたの?‥‥モリオくん」
「‥‥‥‥‥それが、おかしいんだ」モリオはそう言って、すでに100メートル以上遠ざかって小さくなってしまった、道の途中に残してきたみんなを指差した。
「おかしいって‥‥何が?」ツジウラ ソノが不審げに歩いて来て、モリオの傍らに並ぶ。
「見てみろって、あれを!」
ツジウラ ソノはモリオの言う通りに『みんな』の方を見た。

「え?」彼女は目を丸くして驚いた。「あれって!もしかしてタキくんとアラタくん??」
「やっぱ、そう見えるよな‥」
身動きが取れず道の途中で待機している十数人の集団の中に、明らかにタキとアラタの二人の姿が見受けられたのだ。

「ふたりとも‥‥無事だったってこと?」
「どうもそうらしい」モリオが呆(あき)れた口調で答えた。「どうする?戻って、何やってたのか聞いてみるか?」
「‥‥そうね」ツジウラ ソノはそう言葉を返したものの、実はこの時、タキとアラタ 二人の様子に違和感を覚えたと言う。
「ねえ、何か‥おかしくない?」
「ああ、おかしいさ!あいつらはいつだって、おかしいのさ!」
「冗談抜きで‥さ。見た感じがやっぱり何かおかしいよ‥」
「そうかあァァ?」
二人して目を凝らして、改めてタキとアラタの様子を窺(うかが)う。タキとアラタは集団の真ん中に立っていて、周りのみんなに、頻(しき)りに何事か語りかけている様だ。

「そう言えば、薄汚れて見えるな‥。もしかしたら『あの男』に追っかけられて逃げ回って、草の中を走り回ったり転んだりして汚れたのかもな‥‥‥」
「うん‥そうかも知れないけど‥‥、私には、どこかぼやけて‥‥くすんだ‥感じがする‥‥‥」

そうこうしていると、集団がいきなり動き始めた。
「あれれ?みんなが歩き出した!」
どうやらタキとアラタが、みんなの先導をしているらしかった。林の中の道をひと塊になって、奥の方へと進んで行く。
「きっと、無事に戻って来たタキとアラタが、道をこのまま先に進んでも大丈夫だって、みんなにそう吹き込んだんだ」
「きっと、そうね。行って、彼らふたりに直接確かめてみましょう」
ツジウラ ソノがそう言って走り出した。そしてモリオも、遠ざかって行く集団に追いつこうと走り出した。

しかし、ツジウラ ソノとモリオは、タキとアラタの導きで遠ざかって行く集団に、結局のところ追いつくことができなかった。
それはまったく不思議なことで、林の中の道は、ほとんど脇道のない一本道である。走って近づいて行けば、前を行く者を見失うなど有り得ないことのはずだった。ところが、気がついたら、彼らは忽然と消えていた。最初にタキとアラタが謎の男とともに消え失せたのは、蝶に気を取られて目を離していた僅かな間の出来事だったが、今度は、目を離した覚えなどまったくなかったと言うのに‥‥‥‥
「空が曇って、林の中が暗くなっているせいだ‥‥」
「道を逸れて、どこか茂みの中へ入り込んで行ったのかも‥‥‥」
モリオも、ツジウラ ソノも、狐につままれた様にしばらくの間、立ち尽くしていた。

結果として、みんなとはぐれてしまったモリオとツジウラ ソノの二人だが‥‥、芝生広場まで戻って、葉子先生たちと行動をともにすることを決断したそうだ。


「後で気がついたことなんだんだけど‥‥」
ツジウラ ソノがそう前置きして、その時の回想を締めくくる様に語り出した。
「林の中の道のあの辺りって確か、芝生広場に来る途中に高木さんが腕を『何か』に切りつけられて、血を流していた場所‥‥ではなかったかしら?」
ツジウラ ソノを知り、彼女の独特の感性に興味を抱いていたぼくは、「へえ‥」とだけ曖昧な相槌(あいづち)を打ち、言葉の続きに耳を傾ける。

「もしかしたらあれが‥‥‥すべての出来事の前触(まえぶ)れだったみたいな‥気がするの‥‥‥‥」

次回へ続く