悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (152)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十七

教頭先生が『ヒトデナシ』と呼んだ謎の犯人について、みんなが口を揃えて言ったことがある。
それは『突然目の前に現れたかと思ったら、いつの間にか煙の様に消えていて、すごく離れた場所にまた突然現れる』と言う内容で、モリオは、「きっとあいつは忍者か、そうでなかったらエスパーかも知れないな。何人もいるみたいに見せかけたり(分身の術)してるか、考えただけで違う場所に行ける(テレポーテーション・瞬間移動)んだ!」と力説した。


生徒たちは駐車場に背を向けてんでんばらばらに逃げ出したみたいだったが、ほとんどの者は芝生広場の北西方向の端、木が立ち並ぶ林へと走り出していた。そこに行けば樹々の中に身を隠せるし、ここへ来た時に利用した林の中の道を逆に辿れば、犯人が追いかけて来た場合でも逃げ果(おお)せると咄嗟(とっさ)に考えたのかも知れない。
一方、逆に駐車場に向かった風太郎先生は、教頭先生への凶行を阻止しようと犯人に食らいつき、葉子先生はと言うと、転んだり座り込んでしまって逃げ遅れている子たちを守ろうと、懸命に走り回っていたらしい。慌てて逃げながらもツジウラ ソノは何度も振り向いて、そんな二人の様子を確認していた。そして彼女は、更なる事態の変化をこう証言する。「でも急に、犯人の『ヒトデナシ』が、風太郎先生を投げ飛ばすみたいに振り切って、倒れている教頭先生もほったらかしにして、少し離れたところにいた葉子先生の方へ歩き出したの。私、今度は葉子先生が襲われると思って、『先生、逃げて!』て叫んでた‥」

「覚えて‥るわ‥‥」
この時、力のない大人の声が、ぼくたちの会話に突然割って入った。葉子先生だった。しばらくの間目を瞑って眠る様に静かにしていた葉子先生が会話の全てをちゃんと聞いていて、ふたたび語り出したのだ。
「私‥、まだ駐車場近くにいた子たちを遠くへ逃がそうとしながら‥、携帯電話を出したの。110番と119番に‥‥通報しようとしたのよ‥」
「また、携帯電話か‥‥」ぼくは思わず口走ってしまった。
「え?何のことだよ?」モリオがぼくを見た。
「だぶん‥そうね‥」モリオの質問に答えてくれたのは葉子先生だった。「犯人‥の『ヒトデナシ』は、きっと携帯電話を操作していた私に気がついて‥‥私の方に向かって来たのね」
「ぼくもそう思います」ぼくは頷いた。

その時その後の葉子先生は、まるで風の様な速さで近づいて来た『ヒトデナシ』に、幾度も切りつけられることになる。子供たちを庇(かば)おうとして相手に背を向けていたため、その傷は背中に集中した。
もしこのままずっと葉子先生が携帯電話を手に持っていたなら、『ヒトデナシ』によって致命傷を負わされたか、少なくとも水崎先生みたいに指を切り落とされていただろう。
葉子先生は背中に手酷いダメージを受けながらも、怯える子供たちの盾となり続けていた刹那(せつな)、十数メートル先の芝生の上を高木セナの手を引いて駆けて行く草口ミワの大人びた姿を目にする。おそらくぐずぐずして逃げ遅れていた高木セナを探し出し、こんな状況下でもいつも通り彼女を見捨てることなく懸命に世話を焼いていたのだ。
「お願い草口さん!これで警察と救急に連絡してちょうだい!」全くの咄嗟(とっさ)の行動である。葉子先生は泣きそうな顔で必死に走り去ろうとしている草口ミワに向かって、自分の携帯電話を放り投げたのだ。
葉子先生はまだこの時点では『この行動』が、草口ミワと高木セナの二人を危険に晒(さら)すことに繋(つな)がるとは、夢にも思っていなかっただろう‥‥‥‥

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (151)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その三十六

幼い頃から事あるごとに年寄りたちの口に上(のぼ)る、『ヒトデナシ』の所業と『腹裂き山』の俗称‥‥。ごく近隣の地域で起きたらしい未解決の事件と、捕らえられていない犯人の影に怯(おび)えながら幼少期を過ごしたであろう教頭先生は、大きくなって探した当時のハルサキ山で起きた事件の記録が一切見当たらない事を知って、どんな気持ちになっただろう?
年寄りたちにすっかり騙されていた‥とは考えなかっただろうか?

あくまでもぼくの想像ではあるが、教頭先生は考えなかったと思う。教頭先生が謎の人物に襲われた時に「ヒトデナシだ!ヒトデナシが出た!」と咄嗟(とっさ)に叫んだのは、事件がまったくの出鱈目だったと割り切れずに、半信半疑で今の今までずっとその幻影みたいなものを引きずっていたせいに違いない‥‥‥‥‥


葉子先生の話はそこまでだった。彼女は疲れ果てた様に目を閉じて、すっかり黙り込んでしまった。背中の傷の痛みが酷いのかも知れない。
ぼくはモリオをはじめ、フタハやミドリ、ツジウラ ソノに目配せして、教頭先生が『ヒトデナシ』に襲われてから、他のみんながどうなったのかを聞くことにした。

彼らの話したおおよその経緯はこうだ。
教頭先生の例の叫び声を発端に、みんなが色めき立ったらしい。しばらくの間、一体何が起きたのか、さらに何が起きようとしているのか、まるで分らなかったのだ。駐車場やその近くにいた者は、トイレの建物の向こう側で尻餅をついて怯えている教頭先生と、彼に向かって刃物らしきものを振りかざす『陰の様な人物』を目撃する。ずっと駐車場にいた葉子先生しかり、駐車場と芝生広場の境目の縁石に座り込んでいたモリオとツジウラ ソノしかりだ。「すぐに、教頭先生の体から血が噴き出すのが見えた」とモリオは言う。ツジウラ ソノは息を吞んだ。距離的には一番近くでその光景を目にしていたのだ。やはり全てを見ていた葉子先生は二人に、「逃げて!逃げなさい!」と叫んだ。
勿論二人は逃げた。後先を考えず、芝生広場に向かって。

芝生広場の、駐車場にすぐ近い場所には、タスクと『捕まえた虫コレクション』を比べっこしている風太郎先生がいて、男子を中心にたくさんの取り巻きもいた。彼らはすでに、駐車場のトイレの傍で何かが起きているのを知っていて、血相を変えこちらに向かって走ってくるモリオとツジウラ ソノに驚く。
ここでモリオが発した、この時点ではあくまでも憶測の域を出ないひと言が、一同のパニックを引き起こす。「きっ、教頭先生が殺された!みんな逃げろ!」
「いやあ!」少なからずいた女子の一人が思わず声を上げる。その声は、他の女子へと伝染するみたいに幾つもの悲鳴を誘発させた。「きゃああ!」「キャーアアァ!」「きゃあああああああー!」
そしてその場に居合わせていた、合唱部の一員であり普段から声のトーンもエネルギッシュなタキの「逃げろおおお!」という叫びが合図となって、風太郎先生のイベントに立ち会っていた全員が蜘蛛の子を散らす様に駐車場に背を向けて走り出した。
風太郎先生はと言うと、彼は逃げなかった。駐車場の方を注視したまま、生徒たちとは逆に、教頭先生が襲われている現場に向かって、小走りに駆け出して行ったらしい。

ぼくが茂みの中を彷徨う様に水崎先生の血の跡を辿っていた時、芝生広場の方から風に乗って歓声とも悲鳴ともつかない幾つかの交錯した叫び声が聞こえて来たのを思い出していた。あの時ぼくはそれを、てっきりタキやアラタたちが女子を誘って始めた『男女混合鬼ごっこ』の大はしゃぎの声だと思い込んでしまったのだ。

次回へ続く