悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (164)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その四十九

虫除けスプレーを手に取って眺めていたぼくは、風太郎先生の他の持ち物にも興味が湧いてきた。
確か近くに、彼のデイパックが落ちていたはずだ‥‥‥‥。

それはすぐに見つけることができた。アウトドア用品メーカーのロゴが入った、よく使い込まれたデイパックだ。想像するに、風太郎先生と幾多の野山を共に駆け回った『相棒』なのだろう。
亡くなった先生には失礼だが、ぼくは早速その中身を拝見することににした。

中には、採取した虫がぎっしりひしめいていると思いきや、そうではなかった。スポーツドリンクとミント味の清涼菓子タブレット、ウエットティッシュに、軍手とゴムの二種類の手袋、傷の消毒液と絆創膏にサポーターなどなど、『野外活動の七つ道具』とでも言うものが雑然と入っていた。
虫はどうやら別のケースに入れられていた様で、思い出すに、採取してきた虫を比べっこしようとタスクに声を掛けた時、集まって来た生徒たちの気を引く目的もあって、惜しげも無くそのコレクションを芝生の上に広げていたではないか。教頭先生が『ヒトデナシ』に襲われたのはちょうどその時で、おそらく虫のコレクションは、今もその場所に置き去りになったままなのだろう。
「別段(べつだん)‥‥コレクションを見たかったわけじゃないし‥‥‥」そんな独り言を漏らしながら、ぼくはさらにデイパックの中をかき回した。もしかしたら、風太郎先生自身の携帯電話が入っているかも知れないと思った。さっき先生の身体を運んだ際、ズボンのポケットなどを確認したが、発見できなかったからだ。すると底の方で、硬いものの手ごたえが二つほどあった。ぼくはそれらを一つ一つ、ゆっくりと取り出してみた。
小さな本‥と、少し重みのある黒いソフトケースが出て来た。

「‥へぇ‥‥」とぼくは意外に思った。本はポケットサイズの野鳥の図巻で、ページの角のいたるところが折り曲げられていた。開くとメモの様な書き込みもしてある。ソフトケースの中味は、取り回しのよさそうな小型の双眼鏡だった。「風太郎先生は昆虫採集だけじゃなくて‥‥、バードウォッチング(野鳥観察)の趣味もあったのか‥‥‥」ぼくは双眼鏡を適当な場所に向けて覗いてみた。
「‥‥‥‥‥‥‥」ある考えが、頭の中に閃(ひらめ)いた。「‥こいつは使えそうだ。お借りしよう」

携帯電話は結局、発見できなかった。ぼくはデイパックを閉じ、それを運んで、レジャーシートを掛けた風太郎先生の遺体の脇に丁寧に置いた。ふたたび静かに手を合わせて、双眼鏡をお借りしますと呟いた。
双眼鏡は‥‥‥  駐車場まで行ってそこから‥‥ 『巨大迷路の廃墟』に近づくことなく、その外壁(そとかべ)の今の様子を窺(うかが)うのに使わせてもらおうと思った。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (163)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その四十八

芝生広場の‥目的の地点まで近づいて行くのに、まるで退屈しのぎの散策でもしている振りを装い続けて歩いた‥‥‥‥
途中、誰かが芝生の上に広げたままにしてあったレジャーシートを見つけて、さり気なく拾い上げた。
そのままにして置けないあの『無残な亡骸(なきがら)』に、掛けてあげようと考えたのだ。
やがて雑木林の下にいるみんなの姿がすっかり見えなくなった頃、ぼくはそこに到着した。

すべてが視界に入った途端、世界が一変した気がした。
いくつかに分断されて散乱している風太郎先生の遺体は、改めて眺めてもやはり壮絶で、ぼくは足が竦んでしばらく動けないでいた。しかし、最初に見た時と違って、『襲われかけていた生徒を守ろうと、自らの身を投じてその盾(たて)となった風太郎先生』の、勇敢な行動への少なからぬ敬意が生まれていた。
ぼくは目を瞑り、そんな現場に黙礼(もくれい)した。そして、バラバラになっていた上半身と下半身、右腕と左手、かなり離れたところに転がっていた首を一か所に集め、用意して来たレジャーシートで静かに覆(おお)い、十分な時間をかけて『風太郎先生』に手を合わせた。

本来なら、警察が駆けつけるまで、事件が起きた現場を保存するというのは常識で、死体を動かすなど以(もっ)ての外(ほか)なのは百も承知だったが、そんなことはもはやどうでも良かった。気持ちの整理がついて幾分落ち着いたぼくは、気の向くまま辺りを隈なく歩き回り、何か気に留めるべき痕跡でも在りはしないかと自分なりに調査を開始した。
それにしても風太郎先生は、どうしてここまで酷い殺され方をして、ここにそのまま置き去りにされたのだろうか? 彼より先に殺されたはずの水崎先生、それに教頭先生は、例の巨大迷路の廃墟に運ばれ、腹を裂かれてその外壁に並べて吊るされた。獲物を仕留めて持ち帰り、トロフィー(戦利品)の様に壁に飾りつけていく‥‥それが『ヒトデナシ』の行動パターンであるように思える‥‥‥‥‥
「‥よっぽど‥‥『ヒトデナシ』を怒らせた??」

ゴリッ‥
右に左にと動かしていた足が、芝草に隠れていた何かを踏んづけた。硬いものである。
「何だ?」
ぼくはしゃがみ込んでそれを拾い上げた。一瞬ドリンクの空き缶ゴミかと思ったが、手を広げて見てみると、少し小ぶりの大きさのスプレー缶だった。「そっ そうか‥」すぐに思い当たったのは、葉子先生の話していたことだ。風太郎先生は『ヒトデナシ』の背後から飛びついて組みつき、手にしていたスプレーらしき物をヤツの顔に噴射していた‥‥と。
ぼくは、それが『ヒトデナシ』にかなりのダメージを与えていたと聞かされて、おそらく護身用の催涙スプレーだったのかも知れないと想像し、それと同時に、風太郎先生がなぜそんなものをこの遠足に持ってきていたのかと不思議に思った。しかし、スプレー缶の表示を読むとそれは単なる『虫除けスプレー』で、野外活動に携帯するのに何ら不自然ではないものだった(もっとも、風太郎先生みたいに昆虫採集をする人間が、虫除けスプレーを携帯していたのは、どこかおかしな気もするが‥‥)。
「‥肌に優しいタイプ‥て書いてある。確かに目に入れば多少なりとも染みるだろうけど‥‥、こんなものでヤツを苦しめ、もしかしてすごく怒らせたのか?‥‥‥」
ぼくは、さほど危険な成分が入っていそうもない虫除けスプレーの表示を、もう一度確かめていた。

次回へ続く