悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (221)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百六

最愛の娘『ソラ』を失った‥‥。
そして‥いつの間にか‥、ソラの輪郭だけが抜け殻の様に残って、中身が完全なる空洞の、『ソラの空白』が僕の心の真ん中に出現していた。
その、娘の輪郭と名前を持つ『空白』は、この世のどんな物質や事象を投入しようとも一切埋まらず、悲しみを紛らわそうとして掻き集めて来たそれらは全て弾き出され、『空白』の縁(ふち)の外、ソラの輪郭のあちらこちらに付着して、だんだんと溜まっていく感覚があった。
最初は鮮明に娘の愛らしさを保持していると思い込んでいたソラの輪郭だったが、嘆き悲しむ日々を遣り過ごす知らず知らずのうちに、歪(いびつ)に変形し、且(か)つ肥大化して、その容子(ようす)が刻々とまるで生き物の様に変化していくのを朧(おぼろ)げに認識できた。

その変容と共に僕の心が‥‥、僕の精神が‥‥、壊れようとしているのかも知れない‥‥‥‥

自分の知らないうちに口から漏れ出してしまっている『独り言』が、その兆(きざ)しの一つだと考えて間違いはないだろう。
問題なのは、その壊れ方だろうか?

僕の心が今のまま、『ソラの空白』を心の中に頑(かたく)なに維持し続けようとしているとする。それでも自分を護ろうとする本能がその空白を埋めようと自然に働いて、結局は弾き出されてしまう『所詮(しょせん)ただのすり替えの慰(なぐさ)みに過ぎない様々な異物』がそのまま『空白』の縁の外に蓄積し、ソラの輪郭を全く予想だにしない形状へと、更に‥もしかしたら途方もない負のエネルギーを内在した危うい塊(かたまり)へと変容を遂げていたとしたら‥‥‥、はたして僕の心は最終的にどうなってしまう‥だろう??

「破裂して粉微塵(こなみじん)に‥砕け散るか‥‥‥」それとも、現実的に、「大声で何かを喚(わめ)き散らし出すか‥‥、暴れ出して手当たり次第に何もかもを破壊してまわる‥‥‥か‥」

「‥それはダメだ。そんなことをしたら、妻に怪我をさせるし、悲しませる‥‥」それだけは絶対、避けなければならない‥‥‥‥‥

「待てよ?」‥そう言えば、さっき聞こえた自分自身の独り言。「確か‥ おまえらみんな、くたばっちまえ!」‥だった。

「そうだよ、怒っていた‥」‥きっと僕自身のどこかが今、何かを憎んでいるのでは‥あるまいか?

「ああ‥そうだよきっと。‥で、いったい何を憎んでる? 人か? この世の中か??‥‥」

どこまでが『声に出したこと』で、どこまでが『頭の中で思ったこと』だったのか、区別がつかない奇妙な自問自答だったが‥‥、おそらく僕はその時すでに答えを持っているはずだと‥‥、独り言みたいに頭の中で思った。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (220)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百五

お‥まえら‥ みんな‥‥ くたばっち‥まえ!

その声が聞こえた瞬間‥ 僕は反射的にキョロキョロと周りを見回し、誰かいないか確かめていた。
しかし勿論、誰もいなかった。

「‥‥今のが 独り言‥ だった‥のか‥‥‥‥」僕は意識的に、ゆっくりと呟いた。ひとつひとつの言葉の『出処(でどころ)』を確認する意味を込めて‥だ。正真正銘の独り言だ。
キッチンに立つ妻の様子を窺うと、彼女はこちらに背を向けたままだった。今の『正真正銘の独り言』も、その前に『聞こえた言葉』も、両方とも聞こえなかった様だ。

声に驚いたのは、確かだった。だがそれは、録音された自分の声を初めて聴いた時に感じた『どこか納得できない違和感』といった程度のもので、『まったく信じられない驚き』ではなかった。
しかし一番の問題は恐らく、自分自身で制御できていない言動が存在しているのに気づいてしまったことだろう。その部分で少なからず旋律を覚えていた。

娘が‥ 死んでから‥‥‥
自分はやはり‥病み始めているのかも‥ 知れない‥‥‥‥‥‥

僕は脳天からつま先まで、体全部の力を抜き、ソファーに身を委(ゆだ)ねた。そして天井を見上げ、「‥‥おまえらみんな くたばっちまえ‥‥ か」と、聞こえた声を反芻(はんすう)してみた。正真正銘の独り言であると、いちいち自分に確認を取りながらのこと‥‥だったが。

反芻したその『汚い言葉』。その響きの中には、どこか『世の中の何もかも、すべてのことにもう、うんざりしてしまった』と毒づく様なニュアンスが潜んでいる‥‥気がした。もしそれが当たっていれば、自分が漏らした言葉として、『受け入れられる』と思った。
さらに、言葉が、点けっぱなしのテレビから流れ出たニュースへの反応だったと考えると、なおさら受け入れられるとも思った。政治とカネの問題、自然災害に医療ミス‥だったろうか‥。加えて宗教対立とか国際紛争。互いの憎しみが報復となって永遠に連鎖していく戦争の、聞き慣れてしまった現地からの報告も流れていたろうか‥。やはり、もう沢山(たくさん)。何もかも、うんざりなことばかりではないか‥‥‥
そして、結局思い至る。結局行き着いてしまう。いくら戦争の無い平和な世界を強く願っても、来たるべき巨大地震に備えてあらゆる対策を講じても、理想の社会に一歩でも近づこうと惜しまず努力しても、そんな未来に、どこをどう捜しても娘『ソラ』の姿はない。なぜなら、彼女は死んでしまったから。藁(わら)にも縋(すが)る思いで娘を託した現代医学だったが、治療はおろか、症状の原因すら特定できないまま、娘はこの世から永遠に消え失せてしまったのだから‥‥‥‥

もう、娘の『ソラ』は存在しないのだ。中身のない輪郭だけの『ソラの空白』を、僕の心の真ん中に残していった‥まま‥‥‥‥‥

次回へ続く