第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百八
「セナ?! セナッ セナ!!」
ぼくは、高木セナの体が地面に倒れる寸前に何とか彼女の上半身を支え、抱え込んだ。
「セナ!‥」
考えてみれば、他人がいる場所で、妻のことを名前で呼んだのは初めてだったと思う。他人の前だけではなくて、娘のソラの前でも『かあさん』と呼ぶことにしていて、彼女を名前で呼んだことはおそらく無かったはずだ。
自分が今回、この『小学二年生の遠足』に参加してるのを自覚してからも、他のクラスメート達を意識して、セナのことは『高木セナ』と旧姓のままのフルネームで呼ぶようにしていた‥。
「セナ‥‥ 」
ぼくは高木セナの背中から邪魔になるリュックを外し、彼女を仰向けにしてぼくの膝枕(ひざまくら)に寝かせつけた。そして声を掛けながら、彼女の少し青ざめた顔を被(かぶ)さる様にしてまじまじと見つめた。
「セナ?‥ 」
彼女は意外にも平穏な顔をしていて、少し安心したついでに、こんな至近距離から妻の顔をまじまじと見つめるのは一体‥いつ以来だろうか?‥と思った。
「セナ‥‥ 」
俯(うつむ)いたまま見つめていた両目に、いつの間にか涙が溜(た)まっていた。彼女の薄っすらと開いたままの目や長いまつ毛が、滲(にじ)んでぼやけていった‥‥‥
「ごぎゅぐごぐ‥ がぎばどうごじいばじだ‥‥ 」
再び、『摩擦音』みたいな言葉が聞こえて来た。ぼくは、目に溜まった涙を振り払う様に、風太郎先生の首を仰ぎ見た。
ギュシュッッ‥ 何度目かの奇妙な音が漏れ、風太郎先生の首がまたしても回転し始めた。ゆっくりゆっくり百八十度回転して‥胴体と同じ向きに、言わば『正位置・正方向』に戻った。
ぼくは呆気(あっけ)に取られてその様子を眺めていたが、動作の最中の首の付け根周辺に、どす黒いものが見え隠れしながら蠢(うごめ)いていたのを見逃さなかった。
首が正位置・正方向に戻り、完全な後ろ姿となった風太郎先生は、『これで用が済んだ』とばかりに、体が正面を向いている直線通路前方へと歩き出し、そして遠ざかって行った。
「‥‥‥‥いま、もしかして‥」 風太郎先生を見送ったぼくは呟いた。「‥ありがとう‥ございましたと‥‥、言ったのか?」
たまたまそう聞こえただけなのかも知れないが、風太郎先生が発した「がぎばどうごじいばじだ‥‥」は、ぼくの耳にはどこか‥‥、「ありがとうございました‥‥」と響いた。
もし、それが空耳でなかったとしたら‥‥、風太郎先生はなぜぼくに、感謝の言葉を残したのだろう??‥‥‥‥‥
「はっ!」
ぼくは突然、高木セナが気絶する直前に漏らした言葉を思い出した。その時は意味不明で、危うく忘れかけていたが‥‥、彼女は確か「‥わ‥ わかせんせ‥い‥‥」と言ったのだ。
ズキン!!
その時、頭に強い痛みが走った。何かを思い出そうとして幾度か繰り返された、例の頭痛の前兆だ。
ズキン!!
頭を抱えそうになった。思い出さなきゃ治(おさ)まるはずだ。
ズキリ!!
否(いや)!そんなわけにはいかない!思い出さないと、『この先』へは進めない!
セナが口にした『呼びかけ』に、ぼく自身確かに聞き覚えがあったのだ!
ズキズキン!!
「わか‥ッ 若先生!」 走る痛みに耐えて叫んだ。 「イケノハタミナミ病院の若先生!!」
やっとの思いで絞り出した記憶は、学校の教師ではなくて‥‥ 病院の医者を指す呼称‥‥だった。
次回へ続く