悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (101)

第三夜〇流星群の夜 その十五

昨日まで当たり前に享受できていたはずの日常が‥‥その何もかもの礎(いしずえ)がぐらぐらと揺らぎ始め、見る見るうちに崩れ出していった。
人を石の様に変えてしまう「謎の病」。それが世界で、そしてこの日本で初めて確認されてから、すでに一年と八ヶ月が経っていた。

その朝、僕は都内にある自宅のベッドの上で、遅く目を覚ました。
部屋にある掛け時計はすでに十時を回っている。寝息の様な小さなため息を一つついて、まだしばらく横になっていた。
別段、出掛ける予定はない。食料日用品で配給制になった品目の、幾つかのお店を回っての調達は僕の役目だが、今日は配給がない。大学の受講にしたってほとんどが「リモート」になって久しく、今日デスクトップの前に座るのは午後の一講義だけだ。昼過ぎに起きたところで、両親ももはやとがめない。
気力が萎えている。いつもいつも不安を抱えている。未来が予測できないし、自分の将来も見通せない。一昨日、就活中の先輩から聞いた話だが、会社面接もリモートだったらしい。このご時世、求人のある健全な企業も限られていて、やっとの事で面接まで漕ぎ着けて始まったのはいいのだが、途中から面接官の呂律(ろれつ)が怪しくなっていきやがて何も喋らなくなった。慌てて数人に席から運び出される様子がモニターに映し出された段階で、その面接は急きょ中止になったそうだ。先輩は最後にこう付け加えた。放射性廃棄物となった遺体の仮置き場に、野球場とかのスタジアムが選ばれた理由が分かった気がしたと。「謎の病の犠牲者には座ったままで硬くなった遺体が多いから、きっと観客席を使ってるんだよ。観客席に並べて行くんだ。それ以外の横たわった遺体はグラウンドに寝かせて行けばキレイに整理がつく‥‥」皮肉を込めた冗談のつもりだったのだろうが、まったく笑えなかった。その光景が鮮明に目に浮かんで、逆に気が滅入った。
謎の病での犠牲者の数とは比較にはならないが、ここ一年で自殺者の数が急激に増加していた。特に若年層の占める割合が顕著だった‥‥‥‥‥‥

ベッドに寝転んだまま、もう一度壁の掛け時計に目をやった。
「え?‥」
今、一瞬‥‥、掛け時計の秒針が十二秒ほどの範囲を、すごい速さで進んで行った気がした。一秒間位で十二秒進んだみたいに見えたのだ。
ベッドから飛び起きて目をこすった。再度時計を見、秒針だけを目で追い続けた。一周‥‥‥‥二周‥‥‥‥‥‥‥

もう‥何も起きなかった。きっと寝ぼけていたのだろう。そう思った丁度その時、スマホに着信があった。
彼女からだった。

完全に目が覚めた。彼女と話すのは久しぶりだった。随分会っていなかったし、最近は音信不通状態が続いていたのだ。
「会って‥話したいことがあるの‥‥・」彼女は抑揚のない声で、そう言った。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (100)

第三夜〇流星群の夜 その十四

「軌道エレベーター計画」。
欧米では「ジェイコブズ・ラダー(ヤコブの梯子)」と呼ばれた。旧約聖書に記された、天使が上り下りする天と地を結ぶ梯子である。
軌道エレベーターが完成し計画通り運用されれば、人類にとってそれは一つの救済。神の国へのアプローチでもあるのかも知れない。人類が今まで培(つちか)ってきた科学技術が、はたして神に祝福されるものであるかどうかが試されるのだ‥‥‥。

計画推進の準備拠点として、既に存在する「国際宇宙ステーション」が使用される事が発表された。
宇宙空間での様々な実験や研究に利用されてきた施設であり、アメリカとロシアを軸としてこれまでに複数の国が運用に関わって来た。日本も決して例外ではない。その「国際宇宙ステーション」が大規模な増設と改修を行う事から、「軌道エレベーター計画」はスタートする。自国の宇宙ステーションを建設中だった中国も、「国際宇宙ステーション」への全面協力を約束した。
ただ、「国際宇宙ステーション」は地上から約400㎞上空の熱圏を飛行している。カーマン・ラインと呼ばれる、大気圏と宇宙空間を分ける線引きのすぐ外側である。目指す「軌道エレベーター」の宇宙空間側の構造物を設置する静止軌道は、赤道上の高度35,786㎞の地点(この地点の物体の軌道周期はほぼ24時間で地球の自転周期と同じになり、赤道上の地上あるいは海上からは上空に静止している様に見える)、熱圏のさらに外側の外気圏であった。「計画」の概要は次の通りだ。宇宙側の構造物設置は、低緯度(赤道に近い)で静止軌道投入に適したギアナ宇宙センター(フランス国立宇宙センターロケット発射基地)からロケットを打ち上げる。地上側の発着点となる構造物も、低緯度でできるだけ条件の良い陸地上に建設する(最初の一基目は、海上設置での気象によるリスクを避けたかたちだ)。宇宙と地上を結ぶケーブルは、予(あらかじ)め「国際宇宙ステーション」に運び込んでいた資材を、宇宙輸送機によって静止軌道上まで運搬、徐々に組み立てていく‥‥‥‥。

本当にこんな計画が実現可能なのか?「謎の病」によって世界経済が多大なダメージを受け、各国が財政破綻の危機に瀕している中、計画に掛かるはずの膨大な費用はどうやって捻出するつもりなのか?
計画が発表された報道を見て、僕は正直そんな疑問を持った。
ところが、計画は予想だにしない速さで進行していった。半年後にはもう、幾つもの宇宙ロケットが矢継ぎ早に、「国際宇宙ステーション」へ向けて発射されていた。
日本でも、大型無人輸送ロケットの製造が急ピッチで行なわれていた。
気づかされ、後に知ったのは、計画の推進力は民間が握っていたと言う事と、世界の大企業、資産家と呼ばれる人々がこぞって莫大な無償援助を約束していた事実である。

一週間に一機は必ず、宇宙に向けてロケットが打ち上げられた。「国際宇宙ステーション」は地球から肉眼ではっきり確認できるほど、大きくなっていった。
‥僕は‥‥‥、どこか変だと思った。
そんな矢先、ネット上で奇妙な書き込みを見つけるようになった。それらは即座に削除されていったが、覚えている言葉がある。
「ノアの箱舟」‥‥‥‥、やはり旧約聖書に登場する名称である。

次回へ続く