悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (93)

第三夜〇流星群の夜 その七

「母さんは‥‥、おまえや父さんとは違う時間の流れの中を生き始めたんだ」
ベッドの上で硬くなっていく母の体の傍らで、彼女の父は自らが考えている「現象」について、一人娘である彼女に語り始めた。

「父さんは‥‥、最初の情報に接した時から‥‥、その報告された事象を『病気』と呼ぶことに違和感があった‥‥。こう言う表現は奇妙に聞こえるかも知れないが、犠牲者とされるすべての人の症状と経過が、みんな同じ単調な曲線を描いたグラフを見ているみたいな印象を受けたし、死にざまにしてもただ石の様に硬くなって心停止の状態が続いただけで、どこまでが生きていてどこからが『死』だったのかも結局不明瞭ではないのかと思ったんだ。感染と言う観点からも、その経路をたどれないランダムなまったくの脈略のなさを感じる。もしかしたら‥‥今世界を席巻(せっけん)しつつあるこの『病気と呼ばれている現象』には、人類の行く末にとっての、何か途轍(とてつ)もない意味が秘められているのではないか‥‥‥、そんな気がしたんだ。そう考えずにはいられなかった」

彼女が僕といる時、たまにではあるが彼女の両親の話が出た。印象的だったのはその話題の中での彼女の父に対するリスペクト感で、特に彼の洞察力には少なからぬ憧れの感情が滲(にじ)み出ていた。
だから、この母親のただならぬ事態の中でも彼女が取り乱さず幾分冷静でいられたのは、父親への信頼があったからだろう。
彼女の父は続けた。
「もし‥自分と他者との間で、時間の流れ方が少しずつズレ始めたら、いったいどんな事が起こると思う?」
「‥‥‥‥‥‥‥」彼女は答えられなかった。
「映画に登場する超人的な能力を持ったスーパーヒーローを思い出してごらん。彼が、発射されたマシンガンの弾を素手で一つ一つ掴んで床に払い落とすシーン。周りにいる普通の人間達には、スーパーヒーローのそんな動きが速すぎて見えない。今度はスーパーヒーローの目線から描写されると、周りの普通の人間達全員が時間が止まったみたいに動いていないんだ。まるで石にでもなった様にね‥‥‥‥」そう言って彼女の父は、ベッドで横になっている母に目線をやったそうだ。「あ‥・ああ!」小さな驚きの声を漏らして、彼女もやはりベッドの母を見た。

「父さんもおまえも超人ではないから、速く動いているわけではない。変化があったのは母さん自身の時間の流れだと思う。最初はみんな、同じ時間の流れの中にいた。そして何かを境に‥・時間の流れがズレ始めた。母さんの1秒が我々の2秒になった。時間の流れのズレはどんどん進行していく。母さんの1秒は我々の5秒になり、10秒になり、1分になった。我々には母さんの動きが緩慢に見えてきて、母さんはと言うと、我々の動きについて行けず自分が鈍い動作をしている錯覚に陥(おちい)る。倦怠感を訴えるのはそのせいだろう。さらにズレは進行し、母さんの1秒は我々の1時間になり、1日になり、1ヶ月‥、1年へと‥なっていく‥‥‥‥‥」
彼女の父はここで間を置く様に、ふたたびベッドの上の母親を見た。
「石の様に硬くなった今の母さんの‥‥数秒かかってする動作を確認するには、心臓が一回鼓動する音を確認するには‥‥‥、我々は途方もない時間を待たなければならないだろう‥‥‥‥」

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (92)

第三夜〇流星群の夜 その六

だいぶ後になって彼女から打ち明けられた話だが‥‥‥‥‥
彼女の母親が都内の自宅で亡くなったのは、大学での一件があってから丁度十日たった朝の事だったらしい。

前日は日曜日で、彼女は両親と家族三人揃って夕食を済ませたそうだ。
彼女の母が体の不調を訴え始めたのは夕食の後片付けの最中で、母は「何だか体が怠(だる)くて重たい」と、居間のソファーに座り込んでしまったらしい。
彼女と彼女の父は当然、母が単純に疲れているだけだとは思わなかった。既に情報として周知されていた「謎の病」の症状が、まさしく倦怠感(けんたいかん)だったからである。
嫌な予感しかしなかった彼女は、すぐに救急に電話しようとスマホを手にした。しかし、父はそれを制した。
彼女の父は大手製薬会社に勤務していて、「謎の病」に関しては一般の人間よりも遥かに多くの情報を持ち得るポジションにいたらしい。その父が黙って首を横に振り、娘を見つめた。
「取り敢えず‥・母さんをベッドまで運ぼう。手伝ってくれるかい?」

二人ががりで母をベッドに寝かせると父は傍らに跪(ひざまず)き、母の片手を取って、自らの両手で優しく包み込んだ。
「心配はいらない。ゆっくり休むといいよ」父の言葉に母は小さく頷いて、ゆっくりと目を閉じていった。
彼女は、母の体の動きや反応が見る見る緩慢(かんまん)になっていくのを強く感じていた。彼女も母の手を取りたかったが、ずっと体も手も小刻みに震えていて、目から涙が溢れ出していた。それを母に悟られまいと彼女は、隠れる様に父の背中に顔を押しつけ嗚咽(おえつ)し続けたそうだ。
家族三人は‥‥‥、日付が変わってやがては空が白むまでそうしていた。
父が背中にしがみついていた彼女に向き直り、彼女の肩にそっと手を置いた。彼女は泣きはらした目で父を見、横たわる母を見た。今まで父が握っていた母の片方の手が、少しだけ宙に浮いたままの状態で静止していた。母の体が、すっかり硬くなっているのが分かった。

「‥お母さんは‥‥生きてる?」震える声で彼女は父に問いかけた。
父はそれには答えず、代わりにこう言った。「これから、父さんが考えている事をおまえに話しておく。聞いてくれるかい?」
彼女は小さく頷いた。

「父さんには今世界で広がりつつある病気が、感染症だとは思わないし、人がその原因を突き止めて治療できる病気だとも思わない。だから昨夜(ゆうべ)おまえが救急車を呼ぼうとした時、止めたんだ。母さんは連れていかれて隔離されるだろうし、もう会えなくなる可能性があったからね」
彼女は父の言葉に少なからず納得した様に、傍らのベッドに横たわる母を見た。
「父さんは仕事の関係上、今回の病気の件で数えきれない程の情報を集めてきた。病死したとされる遺体の解剖データや報告、所見なども入手し、分析してみた。それが驚いた事に、未だに満足な解剖も出来ず、僅かな細胞サンプルすら採取するのも難しいらしいんだ。レーザーメスやダイヤモンドカッターでさえ、硬くなった遺体に傷ひとつつけられないでいる。それが現状らしい。信じられるかい?石の様だと言うが、石より硬い。この世に砕けない石など存在しないはずだからね‥‥・」父は少し間を置き、ここからは自分の直観とイマジネーションから導き出した推論だと前置きした上でこう続けた。
「父さんは‥・、今こうして目にしている異変を病気だとは考えない。これは現象だ。病気にかかって死亡したとされている人々は、何か特別な条件がそろってしまい、我々の今いる世界から乖離(かいり)した状態に陥っているのだと。だから彼らはだだ、石の様に硬くなって動かなくなっただけで、死んでいないのではないかと‥考えてるんだ‥‥‥‥・」

次回へ続く