悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (72)

第二夜〇仮面 その十六

私はひるこ神社の鳥居をくぐり、参道を進んでいった。
手水舎(ちょうずや)も狛犬も無い神社だった。人が常駐する社務所らしき建物も見当たらない。あるのはただ参道の正面、沼を背にして建つ小ぶりの社殿がひとつ。
「そうか‥‥‥‥」私はその前に立ち、納得した様に呟いた。
初詣などに行く大抵の神社は、賽銭箱があって参拝者が手を合わせる「拝殿」と、その奥に御神体が鎮座する「本殿」があるものだが、恐らくこの「ひるこ神社」の場合、建っているのは拝殿のみで背後にある「沼」自体が信仰の対象、御神体そのものなのだと思われた。
私はいつも神社でそうする様に、ここでも賽銭を投げて作法道理のぎこちない参拝を済ませた。そして、すぐに山道に戻って「胎内くぐりの洞窟」を目指すつもりだった。並行世界のみんながこの神社に立ち寄ったとしても、やはりすぐに行き過ぎただろうと考えたからだ。彼女達は基本的に神社仏閣に興味を示すタイプの人間ではない。それでも強いて思い出してみるなら‥‥陶子が、「厩戸皇子(うまやどのみこ)」を描いた漫画に心酔していた時期があって、飛鳥時代のお寺を調べていたっけか‥‥。
夕暮れ前の低い日差しを受けた沼の水面(みなも)のきらめきには多少の未練はあったが、私は踵(きびす)を返し、拝殿とその後ろにある沼に背を向けた。

コポッ‥コポリ‥‥‥‥
その時、奇妙な水音が私の耳に届いた。

私は帰る参道の途中で振り向いていた。沼の真ん中辺りに幾つかの幽かな波紋が広がるのが見て取れた。
「‥‥何か‥‥‥‥いるの?」
しばらく眺めていたが、次の変化は起こらなかった。
私は、返した踵を再び返してしまっていた。気になったのだ。
魚か‥亀の仕業か?確かめられるものなら確かめたい。ほんの二三分でいい、近づいて沼の水を覗いてから帰ろうと思った。

沼は、奥行きが100メートルは優にある。横幅も50メートル前後というところか。観光案内地図に描かれたペンキの絵は「ゾウリムシ」に見えたが、まさにそんな形をしていた。三方の岸は生い茂った樹々や丈の高い草に囲まれていて、水際まで近づけるのは拝殿の後方からだけだ。
私は拝殿を回り込み、沼に向かって歩いて行った。雑草の生えた地面は徐々に湿り気を帯びていったが、ぬかるんで足を取られる事はなかった。
「あ‥・」途中まで行った右手に、平らな自然石が点々と敷かれているのに気がついた。きっと参拝者に用意されたものだろう。私はその石の上を辿って歩いた。

「わあ‥‥こんなに透明だったんだ‥‥‥‥」
なだらかな傾斜の土の地面が透き通った水の中に沈み込んでいった。水は手ですくって飲めそうなくらいきれいに見える。どうやらこの沼は、周囲の山から染み出した清らかな湧き水を湛(たた)えているらしい。
連なる敷石が辛うじて水の上に顔を出してもう少し先まで続いていて、その石の道が途切れる手前に、子供の背丈ほどの黒い岩がポツンとまるで道標の様に立っていた。
近づいて見てみると何やら文字が刻まれている。辺りの水底には参拝者が投げたものか、無数の硬貨が沈んでいるのが見て取れた。
石碑だ。

碑文‥‥‥石碑にはこう刻まれていた。
『故きを捨つる心あらば 新しきもの来るやもしれず』

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (71)

第二夜〇仮面 その十五

少年は山道を彷徨(さまよ)っていた。

少年は両親の離婚を期に母と共に実家のあるこの田舎町に移り住み、祖母と三人で暮らし始めた。
山間部にあるその小さな町は多くの自然に恵まれてはいたが、都会での生活とは違って古い因習が人々の心に深く根付いていて、少年には決して居心地のいい場所ではなかった。転入した小学校でも馴染めず、友達はできなかった。
学校から帰っても独りぼっちの少年は、山歩きをするようになった。無理に周りの大人や学校の子達と交流を図るより、独りでいる事を選んだのだ。
少年は山道を歩きながら、もうずっと独りきりでいいやと思った。大人はいつだって身勝手で信用できないし、友達にしたって、住む場所が変わったからと言ってそこで新しい子を調達するみたいに簡単に作れるはずがない。
ああ‥つくづく子供は無力だ。子供は産まれてくる場所も家も環境も選べない。自分で選択できないのだ。いっそすべての関わりを捨ててしまって、すべてを振り出しに戻して、まったく別の世界で生きていけたらどれだけ気楽だろうか‥‥‥‥
そんな事を考えながら歩いていると、いつの間にかまわりの景色が変化していた。山道の幅が狭く勾配が急なところが増え、足元が険しくなっていった。実際少年は何度か足を滑らせたが、それでも踏ん張って先へ進んでいった。
祖母の言葉を思い出した。この辺りの山々は昔から修行をする人達にとっての神聖な場所であり、無暗に子供が立ち入っていいわけがないと、山歩きをするようになった少年は釘を刺されていた。
かまうものかと意地になっていた。大人の指図など全部自分達の都合ではないか。
ほとんど崖の様な場所を少年はよじ登った。手や足の衣服から露出した部分が傷だらけになった。急激な運動による汗なのか冷や汗なのか、区別のつかない汗が全身から噴き出していた‥‥‥‥‥‥

気がつくと少年は、巨大な岩が無造作に組み合わさったみたいな景観を持つ山肌の前に立っていた。岩と岩の合わせ目に隙間が出来ている部分に目が止まる。その縦長の隙間はまるで洞窟の様に、奥へ奥へと暗闇が続いていた。
好奇心が、或いは自分の気持ちを蔑(ないがし)ろにする者達への意味のない反抗心が、少年の足を前に動かした。少年は洞窟に吸い込まれていき、やがてその暗闇に溶けて消えていった‥‥‥‥‥‥‥

こうして少年は、この世界から姿を消した。
少年は名を、ワタルと言った。


私は山道を歩いて行った。
胎内くぐりの洞窟へ続く実際の山道はきちんと整備されていて、歩き辛さは感じなかった。未舗装で多少の勾配はあるものの、軽自動車なら楽に通れる道幅があり、でこぼこを均(なら)す様にジャリ石が敷かれていた。
辺りに茂る樹々に意味深げな陰影をもたらしている日の光が僅かに夕暮れの気配を漂わせ始めた頃、山道左手の低木の並び越しに忽然と鳥居が現れた。
「ああ‥‥そうか」私は再度、観光案内地図を思い出していた。胎内くぐりの洞窟に至る手前に描かれていた神社だ。
「これが‥ひるこ神社と言うことか。だったらすぐ傍に‥‥‥」
私は回り込む様にして左の脇道に入った。古ぼけた鳥居の前に立ち奥を窺(うかが)うと、やはり古ぼけたどちらかと言えば小ぶりのお社が見て取れた。そしてそのお社の背後には思いがけない水のきらめき。想像していたよりもずっと大きな沼が、神社のすぐ後ろに広がっていたのだ。
胎内くぐりの洞窟に着く前にみんなも、山を登りかけたこんな場所に悠然と水を湛える沼がある事に驚いて足を止めたに違いない‥‥‥と私は思った。

次回へ続く