悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (78)

第二夜〇仮面 その二十二

「沼で待つ!」

スマホへの着信。ディスプレイに表示された認識不能のドット集合体の羅列の中、拾い出した五つのカタカナらしき文字は確かにそう解釈できる「意味を成した文章」に見えた。
そして、私はその解釈を信じた。なぜなら、「胎内くぐりの洞窟を体験した直後」の私だったからに他(ほか)ならない。胎内くぐりを体験する事で、「きっと何かが変わる」、「必ずや事態が変化する」と言う根拠のない期待が何時(いつ)しか芽生えて膨らんでいき、はっきりと自覚しないまま、現状を打破したいと願う私の「心の拠り所(よりどころ)」となっていたのだろう‥‥‥‥‥。

「認識できないでいた並行世界に、何か決定的な異変が生じたんだ!みんなが沼で私の現れるのを待っている!」

さらにはその解釈に身勝手な憶測も加味されて、私の頭の中は湧き立っていった。居ても立っても居られなくなった。

私は山を下りて行った。まだ身体のあちこちが痛かったし、特に顎(あご)のあたりには明らかな違和感が残っていた。それにあたりはすっかり日が暮れきった夜である。しかし、心が逸(はや)った。できる限り急ぎたかった。
胎内くぐりの洞窟の出口からの下り道は入り口への道とは別ルートになっていて、幸い、勾配が比較的緩やかでジグザグに折り返す回数も少なかった。夜の暗さは空に輝く満月が、足元が危うくならない程度に照らしてくれた。
来た時よりもずっと奥まった位置ではあったが、思っていたよりも早く「山道」まで下りることができた。後は沼のある「ひるこ神社」まで、この山道を戻るだけ。
「待ってて!みんなぁ!」
小走りとはいかないまでも、一生懸命足を動かした。僅かなでこぼこや小石に転びそうになりながらも、気持ちには張りがあった。いつの間にかスカートのポケットに手を突っ込み、来る途中で別々に拾った二つの「お菓子の包み紙」を一緒くたにして、強く握りしめていた。
やがて山道の右手に、どす黒いシルエットとなって神社の鳥居が見えてきた。私は微塵(みじん)の迷いもなく、その鳥居をくぐった。

「月‥‥‥‥‥」私は思わず足を止めてしまった。
満月‥。空にある‥満月の光‥‥が、沼全体を銀盤のごとく浮かび上がらせていたのだ。
それは、夕暮れ前の景色とはまったくの別物の、別世界の、幻想的な光景だった。

私は沼に見とれながら、やはり黒いシルエットとなった拝殿を迂回して石碑のある所まで行った。みんなが待っているとしたら、水際のこの場所である気がした。
だが、そこには誰もいなかった。沼の水に向かって続いている敷石を目で追ってみたが、どの石の上にもやはり人影は見当たらない‥‥‥‥‥‥

「‥え?」

目で追っていた敷石の連なりが水の上で途切れているその先‥‥‥、ずっと先の‥‥沼の真ん中辺りにあった何かが視界の隅に入った。
私は改めてその何かに視線を向ける。
「ぅ‥うそ‥‥‥‥」

信じ難い事だがそれは人に見えた。沼の水面(みなも)の上に人が立っている。いち‥にい、さん、しいぃ‥ご‥‥、それも五人いる‥‥‥。

それは紛れもない‥‥みんなの姿だった。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (77)

第二夜〇仮面 その二十一

慌てて駆け出して1分もしないうちに、前方に「窓」が見えた。洞窟の外の明るい景色が「横長に潰れたひし形状」に切り取られた「窓」‥。
それは間違いなく出口だった。
入口はゆったりとした大きさだったが、出口はその五分の一もない。さらには岩の天井が圧迫する感じで低くなっていて、立ったままでは近づけない位置にある。四つん這いになって進んで行って擦り抜けるしか手段はなさそうだ。「胎内くぐり」の終わりは「難産」と言うわけか。私は逸(はや)る心を抑えて手と膝を突き、出来うる限りのスピードで「出口の窓」に近づいて行った。
出口まで2メート手前に達した時、その窓を、スカートの裾と白いソックスを着けた数人分の足が右から左へと横切って行くのが見えた。その内の二本の足が目を引く「ショッキングピンクと黒のツートンカラー」のスポーツシューズを履いている。私は、その派手なシューズを普段からさり気なく履きこなしている人間を身近に一人知っていた。
「実奈! 実奈! 実奈ァ!」私は手を伸ばして叫んでいた。「待ってええ! みんなあああァァ!!」
やった!胎内くぐりの洞窟の「出口の窓」は、分岐してしまったみんなと私の並行世界を繋いでくれる「時空の穴」となっていたのだ!
待って待ってと何度も叫びながら私はバタバタと手足を動かした。しかし、出口の床は外と地続きではなく、通せんぼをする様に40センチから50センチほどの岩が正(まさ)に高い敷居のごとく張り出していて、天井が低い分四つん這いのままで乗り越えなければ出られそうにない。私はその敷居岩に両手を掛け、力任(ちからまか)せに無理やり外へ這いずり出ようとした。狭い出口ではあったが、ゆっくり出れば何の問題も無かったはずだ。しかし私はこの上なく慌てふためいていたので、出口の天井の高さを完全に見誤った。頭を上げて通過するべきではなかったのだ。

ゴツン!
私は出口上部の岩の縁(ふち)に強(したた)か頭をぶつけた。さらにはその反動で、外の地面に向けて落下していくみたいに顎(あご)からつんのめっていった。
どてっ!!
意識が断層の様にずれ動く感じの激痛が頭の芯(しん)まで走った‥‥‥‥‥‥


「い‥‥‥いっ‥っ‥っゥゥ‥‥‥‥‥」
痛みが引いていくまで地べたに突っ伏してじっとしていた私は、小さく呻(うめ)きながら目を開けた。
「え?‥‥‥‥‥‥‥」目の前には、夜の風景が広がっていた。空には星が輝き、おそらく東の方角だろう、黒い輪郭となった山々の上に満月が顔を出していた。
いったいどういう事だろう? 私が洞窟の出口から這い出た瞬間は確かに明るかった。夕暮れだったとはいえ、まだその残光が十分辺りを照らしていたではないか‥‥‥‥‥‥

私はゆっくりと身を起こした。この狐につままれたみたいな状況を、はっきりしない寝起きの様な意識で振り返ってみた。
ズキリと頭が痛んだ。顎にも違和感がある‥‥‥‥。どうやら私は、顎や頭を地面に強く打ちつけた後‥‥、しばらくの間昏倒していたらしい。
「‥ああ‥‥‥‥‥」しがみついていた一縷(いちる)の望みが、完全に潰(つい)え去った事を知った。みんなはもう行ってしまったのだ。全身から力が抜けていき、それと同時に体のあちこちが痛み出した。

私はこれから‥どうしたらいいのだろうか‥‥‥‥‥
地面に座り込んだまま傷だらけの自分の体を、労わる様に静かに抱きしめた。涙はもう湧き出しては来なかった。

ツッツ‥ポンパパパンン‥‥・
唐突に小さなメロディーが耳に届いた。「??‥」すぐ近くから聞こえた。そうか‥背負っているリュックの中からだ。私は、もう使い物にならないと判断して、スマホをリュックに仕舞い込んだ事を思い出した。
「まさか‥着信?」慌ててリュックを開け、スマホを取り出す。

ディスプレイが夜の薄闇に光る。覗き込んだ私はやはりガッカリした。認識ができなくなった時と同じ、エイリアンの交信みたいな「文字化けのもっと酷い状態」は変わっていなかった。
「ん?‥」ところが今回は、読み取れる文字がところどころに見受けられるではないか‥‥‥。
カタカナに見えるその文字を、私は上から順に拾っていった。
「‥ヌ‥‥‥‥マ‥‥‥‥‥‥‥デ‥‥マ‥‥‥‥‥‥‥‥ツ‥‥‥‥‥」読めたのはその五文字。
「ヌ‥・マ・デ・マ・ツ‥‥」
「ヌ・マデマ・ツ」
「ヌマ・デ・マツ」

沼で待つ !」

次回へ続く