悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (264)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百四十九

「 セナッ!! 」
ぼくは叫んでいた。しかしその叫びは、彼女に助けを請(こ)うものでは決してなかった。

セナはさっきから、すでに傍(かたわ)らにいた。
ぼくが少しだけ首を回して様子を窺(うかが)ってみると、彼女は今にも叫び出しそうな表情をして凍りついていた。
無理もない。彼女の目の前にいるぼくときたら、前腕から二の腕に至るまでの右手が全部消え失せていて、辛(かろ)うじて残った肩口を板壁(いたかべ)にくっつけたみたいにして突っ立っているのだから‥。
きっとぼくの右手は壁に吸い取られたか、壁に食いちぎられたに違いないとでも思っているに違いない。
「 セナ! ぼくは大丈夫だ! 右手は切れて無くなったわけじゃなくて、今も繋(つな)がってる感覚がちゃんとある!」
ぼくが声に力を込めてセナに説明すると、彼女は見開いた両目をパチクリさせて、瞬(まばた)きを五回繰り返した。

「 どッ どういうこと?! いったい何が起こってるの?? 」
「 見つけたんだよ、出口を!!」
「 で?ぐち? 」
「 そうだ! このどこまでも続いていていつまでも終わらない通路からの脱出口をだ!
セナに対してぼくは、それがここだと言う様に、消えずにあるぼくの左手の人差し指で、ぼくの左肩口より先が消えている板壁(いたかべ)のその部分を指し示して見せた。
「 ま‥ まさか 」 セナは喜ぶどころか、困惑した表情を見せた。「 そんなの‥信じられない‥‥ 」

無理もない。そんなことを言われて、いきなり信じられるわけがない。ぼくにしたって、ただ自分の直感に従ってものを言っているだけなのだから‥‥‥

「 確かに‥そうだな。 でもぼくはこのままこの板壁を通り抜けるつもりで、左半分から始まって‥徐々に体全体を前へ前へと進んでみようと考えてる。と言うのも、どうやらこの出口は一方通行らしくて、いったん消えて行った部分を引き寄せて元に戻すことができないでいるからなんだ。後戻りができないのなら行くしかないと‥そう思ったんだ‥‥‥‥ 」 それで‥ と言いかけてぼくは言葉を濁した。
もし、ぼくの体が全て壁の前からどこかへ消え失せていって、セナがこの通路に一人残されたなら‥‥、取り残された彼女はぼくと同じことをして、すぐにぼくの後を追って来てくれるだろうか?‥‥‥‥‥

「 ‥セナ 」
しばらくして、ぼくは再び口を開き、彼女に訊(たず)ねた。
「 きみは‥、ぼくと一緒に行くつもりは‥あるかい? 」
「 ‥‥‥‥‥‥‥‥ 」 セナは返答をせず、押し黙っていた。
「 ここが出口と言ったのは単なるぼくの勘(かん)で、もしかしたらそれこそこれが『魔物が仕掛けた罠』なのかも知れない。つまり結局は、試してみないと分からないと言うことなんだ。ぼくはきみを護(まも)りたいし、わざわざ危ない橋を渡って‥きみに辛くて悲しい思いをさせたくない‥‥‥‥ 」
「 ‥‥‥‥‥‥‥‥ 」 セナはやはり黙ったままで、ぼくの目をただじっと見ていた。

「 取り敢(あ)えず‥、ぼくは行く。きみはきみの自由にして、ここに残ってもいいし‥ 」ぼくがそう言いかけた時、セナが動いた。いきなり、消えずにあるぼくの左腕に彼女の両手を強く巻きつけてきて、そして言った。
「 一緒に行くに 決まってるでしょ 」

次回へ続く
尚、十月に入ってからの二週程、都合により更新を休ませて頂きます。ご了承下さい。

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (263)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百四十八

落ち着け! 落ち着け! 落ち着かなければ、『内なる声の導き』を見失ってしまう‥‥

この世界はぼくが拵(こしら)えたもので‥‥、例えそれをはっきりと自覚していなくとも、ぼくが『ぼく自身を陥(おとしい)れる様なシナリオ』を描くはずはないと信じている。『内なる声』が提示しているさり気ない『導き』を見失わず素直に従っていくことで、自ずと道は開けていくはずなのだ。

「 大丈夫なの?!ヒカリさん! 」
焦る僕の気持ちを敏感に感じ取って、セナが心配そうに声を掛けてきた。
「 あっ ああ、大丈夫だ‥ 」
ぼくは取り繕(つくろ)った生返事(なまへんじ)をしながら、懸命に頭の中を整理しようとしていた。
まるで金縛りみたいに、なぜぼくの右手はそのままの状態で動いていないのだろう?
ここまでの成り行きを振り返ってみても、この‥音符の花が並べられた板壁(いたかべ)は、ぼくを陥れるための『罠(わな)』などではなく、『導き』であるはずなのだ。
だったら、何がいけない? 一体ぼくの行動の‥何が間違っている??

「 何をためらってるの?ヒカリさん! 少しでも右手を動かしてみて! 」
ぼくが躊躇(ちゅうちょ)しているのだと思って、セナが急(せ)かした。
ぼくは躊躇などしていない。ただ、ぼくの右手が一体どうなっているのか確かめるために、少しだけ右腕を手前に引いてみた‥だけで‥‥‥‥‥‥

「 ‥‥ぼくは躊躇して ‥いるのか? 」 その時ぼくは気がついた。この状況が『罠』ではないと、自分自身が信じ切れていないのだと言うことを。だから、自(みずか)らこの様な膠着状態(こうちゃくじょうたい)を呼び込んでしまっているのかも知れない‥‥‥‥
「 ヒカリさん! がんばって! 」 セナの励ます声が迷路通路に響いた。

「 ‥うん‥‥‥ そうだよね 」
彼女の声で、幾分(いくぶん)冷静さが戻った気がした。
ぼくは今ここで、何をしているのか? 辿り着いた今、この状態にある意味を考えてみた。別段‥、板壁に血で描かれている『音符の花』を、摘んでみたかったわけではないはずだ‥‥‥‥‥

「 ぼくが‥今本当に欲(ほっ)しているのは、現状の打開。 この通路からの出口を見つける‥ことなんだ! 」
自分の声に励まされる様に、ぼくは右手に力を込めた。先ほどとは逆に、板壁に接したところで途切れて消えている右手前腕(ぜんわん)を、壁に押しつける感覚で思い切り前方に突き出した。

「 はっ!?
ぼくは思わず息を吞んだ。突き出した右腕は何の抵抗も受けず、見る見るうちに右前腕の全てと続いて二の腕がぼくの肩口まで、壁板に刺さっていくみたいに消えて行った。

最初にどこからか『野ばら』の歌声が流れて来たことも、板壁に押された赤い花のスタンプの一部が『野ばらの音符の配列』であることに気づかされたことも、そしてその結果としてぼくに『野中のばら』の歌詞を思い起こさせたことも、そして更には『血が垂れてできた茎(くき)を持つ音符の花』を摘ませようとして、板壁に向かってぼくに手を出させたことも‥‥、すべてはぼくを『この状態』に至らしめるための『導き』であったのかと‥、即座にぼくは悟った。

次回へ続く