悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (269)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百二十四

「聞こえてる? ヒカリさん!」
「ああ、聞こえてる」
まるでそんなやり取りを二人でするみたいに、ぼくとセナは目で合図を送り合い、互いに頷(うなず)いていた。
ぼくは、通路の前方に耳を欹(そばだ)てると同時に、上方(じょうほう)にも視線を向けた。通路には天井など無かったが、仕切り壁の右から左へ、あるいは左から右へと渡って繁殖しているツタが目隠しをしているせいで、空は斑(まだら)に覗(のぞ)けるだけだったが、前方斜め上方、ツタの葉と葉の隙間に、空を覆う雲の一部をバックにして、太い木の柱が立っているのが辛うじて見えた。その柱はきっと、巨大迷路の丁度真ん中に立っている展望櫓(てんぼうやぐら)を支える四本の柱の一本に違いない。

「行こう。このまま進もう‥」と そう口にする代わりに、ぼくはセナにもう一度頷いて見せた。
気がつけば‥今ぼく達がいる通路は、迷路に相応(ふさわ)しくないほど真っすぐで、前方が薄闇に溶けて見えなくなるくらい奥行きがあった。左右両側の仕切り壁にはずっと、ふんだんに『血のスタンプ』の装飾がなされていて、他(ほか)の場所とは違う特別感も漂っていた。
一歩一歩足を繰り出していくごとに、幽(かす)かだった歌声は、徐々に音量を増していく。『曲名は確か‥ 』と予想はしていたが、それが正(まさ)しく予想通りのものであることも、はっきりしていった。
さらには聞こえている歌声が、複数の人間の合唱であることも分かってきたのだった‥‥‥‥‥

「いよいよ‥ ていう、感じなのかしら?」 セナが、ちゃんと言葉を口に出して囁(ささや)いた。そして繋(つな)いでいたぼくの手を、力を込めて握った。彼女の手のひらは汗ばんでいたが、その汗はもしかしたら、ぼく自身の手から出たものだったかも知れない。
「ああ‥ もしかしたら、歓迎してくれているの‥かもな?」 ぼくは彼女の緊張を(もしかしたら自分自身の緊張を‥)和らげるために、少し冗談めかして言った。

ぼく達は前進した。しかし、その直線通路は一向に終わりを告げる気配が無かった。いくら目を凝らしても前方を見通すことができず、右もしくは左へ折れる曲がり角も、分岐点も皆無だった。
しかし、流れて来る歌声の音量だけは、着実に大きくなっていくのは確かだったが‥‥‥‥‥

いったい、どこまで続くんだ?? ここはやはり、巨大迷路廃墟の中ではない、別の場所なのか?!
そんな考えが、頭を過(よぎ)った。
ぼく達はまんまとヒトデナシの誘いに乗っかって、ヤツの仕掛けた罠に落ちてしまったのだろうか‥‥‥‥‥

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (268)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百二十三

当たり前のことだが、セナにぼくの『決意』を話して聞かせたものの、例の頭痛が早々(そうそう)都合よくやって来るとは考えにくかった。
ただ‥‥、頭痛を呼び寄せるものが、どんな『自問』に根差しているのかは心当たりがあった。
それは至極(しごく)当たり前の問いかけで、『いったい、ここはどういう場所で、ぼくは何故(なぜ)ここにいるのか?』というものだ。

そこまで分かっているのなら、すぐにでもそれらの疑問にしっかりとアプローチすべきなのだろうが‥‥、実はぼくには、襲って来る頭の痛みよりももっと、恐れていることがあったのだ。
それは‥、ぼくが意識していない状況下で度々(たびたび)表れて、何事かを口走る、『自分の中にいる(らしい‥)もう一人の人格』の存在である。
当然ぼくは、『そいつ』のことを知らない。実際に表れた時に一緒にいたセナの話から推測すると、『そいつ』の言動はやたらと感情的で粗暴(そぼう)な印象を受ける。『自分の知らない自分』『自分がコントロールできない自分』が存在しているという事実は、何よりもぼくを不安にさせた。
頭の激痛を必死で堪(こら)え、乗り越えた果てに『そいつ』が待ち構えているのだとしたら、その時ぼくはどう対処すればいいのだろうか? もしかしたら『そいつ』が、ぼくの人格とそっくり入れ替わることを企んでいたとして、それがその通りになってしまったら、今のぼくはどうなるのだろう‥‥‥‥‥

「 自分であるのに‥ 自分でない、自分‥‥か 」 ぼくは独り言を呟いた。正真正銘の独り言だった。
「 え? 何のこと?」その呟きを聞き逃さなかったセナが、ぼくの顔を覗き込むようにして言った。「もしかしてさっきから‥‥ ヒトデナシのこと 考えてる?」
「 いや‥ 違うよ。自分の中にあるかも知れない、もう一つの人格について‥、考えてたんだ‥‥‥」
「そう‥ なんだ‥‥」
会話は、そこで途切れた。
何故なら、その時、歩を進めている迷路通路前方から、幽(かす)かな歌声が流れて来たのを、セナもぼくも聞き逃さなかったからだ。

次回へ続く