ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (26)

別冊付録 第四話「死体」の周辺 その一
第五話「月の石」を始める前に、第四話で描ききれなかった事や誤解を招きかねない表現があったので、補足と説明の意味を込めて今回は私の故郷の「町」について書いてみようと思います。

私が生まれ育ったのは、和歌山県でも一番小さい人口三千人足らずの町「T町」です。
ところが、おそらく安倍首相もケネディ前駐日大使もご存知のはずで、何を隠そう外国の反捕鯨活動家の皆さんの言わば標的となっている「町」なのです。

私が町を離れる以前も多少の問題は存在しましたが、商業捕鯨が禁止となり、調査捕鯨と許されている沿岸捕鯨(イルカ漁)にスポットが当てられるに至ってにわかに騒がしくなり、2010年映画「ザ・コーヴ」がアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した事で大騒動となりました。国内外から活動家や取材人が押し寄せ色々と大変だった様です。

第四話作中で触れた通り、私の町は「古式捕鯨発祥の地」とされています。注目すべきは、網と銛を併用して集団で巨大なクジラを仕留める組織的な捕鯨法が確立されていた事です。例えば、最初に銛を打ち込む足の速い船や網を運び掛ける平べったい船などそれぞれの役割の船が船団を組み、クジラを追いかけたわけです。
姓に「網」がつく私はどうやら「網船」に乗り網を扱っていた「網方」の子孫らしいです。もっともクジラ用の網ですから、一目が数十センチもあり細めのロープで編まれた感じですが‥
「古式捕鯨」を題材にした本もいくつか存在します。
私が印象的だったのは「勇魚(いさな)」というC.W.ニコル氏が書いた小説で、ニコルさんは私が高校を卒業した頃町にいらっしゃり、しばらく滞在して丹念に取材されこの物語をものにされたのだと思います。

話は戻りますが問題の争点となっているのは「イルカの追い込み漁」なのですが、それについては次回に書いてみたいと思います。

ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (25)

第四話「死体」 その五
1987年、映画「スタンド・バイ・ミー」が日本で公開されると、私は早速映画館に足を運びます。
鑑賞し、流れるエンドロールをぼんやり眺めてセンチメンタルな余韻にひたっていた私の心の中に、ある感慨がこみ上げていました。それは、少年時代余計な行動を繰り返しては心底後悔していた愚かしい自分への愛おしさでした。
ご存知の通り映画の原作はスティーヴン・キングの「死体(the body)」です。

本物の死体を見たいという強い想いは、トンネルを通過する時もきわめて有効に働き、「壁の顔」をほとんど意識する事はありませんでした。
5台の自転車は減速する事なく闇を抜け、山が迫る道を突っ切り、あっという間にM湾を望める場所にまで私達を運びました。

当の現場はすぐに分かりました。近くに民家はなく養殖イカダと作業小屋しかない所に、十数名の人だかりができていたからです。
自転車を降り,さりげなさを装い私達も彼らの後ろに立ちます。
彼らが遠巻きにして見つめているものこそ、私達が求める?それでした‥‥‥

彼‥‥中年の男性の死体はすでに引き上げられ岸に寝かされていて、何か(制服の人達の到着?)を待っている様子でした。
布の様な物が掛けられてはいましたが寸足らずだったのか、髪の少ない頭部から肩のあたりまで見る事ができました。
少なくとも上半身は裸。首にひも状の何かが巻き付いています(後で気づいたのですがそれはネクタイで、着ていた服はおそらく波にもまれるうちに脱げてしまった様なのです)。
皮膚は傷んでいましたが「赤」い印象はまったく無く、むらさきや茶色が混ざって白濁した灰色をしていました。

15分程見ればそれでもう十分でした。
誰とは無しにひとりふたりと現場に背を向け、自転車のとめてある方へ歩いて行きます。私もそうしました。
みんな口数少なげにそれぞれの自転車にまたがり、ここで解散する事となりました。
私はS君と並んで走り出しました。
「おもしろ‥なかったな‥‥」
S君はポツリ言い置いて、スピードを上げて走り去っていきました。
私はS君を追おうとは考えませんでした。ひどく体が怠かったのです。

(私達‥‥私は、一体何を期待していたのだろうか‥‥‥)
何か物凄い重労働をした後の様に、全身に怠さを感じていました。
頭の中はというと膜がはったみたいにぼんやりしていて、しかしその中に明らかに死体を見た事への後悔の感情が生まれ、深く刻み込まれた気がしました。

ため息をつく気力も消え失せ、自転車を止めて前方に目をやると‥‥
やはり「トンネル」が黒い口を開けて待ちかまえていました。
行った道は帰りも通るのは一つの道理。
「後悔先に立たず」と言うことわざも全くの道理でした‥‥‥