ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (42)

最終話「夕暮れ」 その二
幼年期の終わり‥・少年期の終わりは‥‥‥
例えるなら
遊びに夢中になっていて迫りくる夕暮れに気づかず、我に返って辺りを見回してみた時にはすでに日が落ちきって、薄闇が広がっている。暗くなっては遊べない。
「それじゃあまたね、また明日遊ぼうよ。」顔の表情も読み取れなくなった友達とそう言い合ってとぼとぼと家路につく。
そして翌日、窓の外は雨。雨は降り続き外遊びはお預け。
次の日も雨。その次の日も雨で、当分は外遊びは無理みたい。
「そのうち晴れるさ。止まない雨はない。」
その通り、雨は数日後には上がった。
しかし、その時にはもう僕らは、あれだけ夢中になった遊びの遊び方を、すっかり忘れてしまって‥‥・いた‥とさ。
というような感覚でしょうか。

「夕暮れ」が知らせてくれた「終わり」に気づかず、随分あとになって「あの日の夕暮れの意味」を自覚するのです。

小学六年生の夏休みが終わり、大阪万博も閉幕して、やがて秋が深まりつつありました。
私が学習塾に通い始めたのは、確かこの頃だったと思います。学習塾といっても田舎ですから、民家の畳の部屋に長机を並べて10人ほどが先生を囲むという規模のものですが、内容は厳しくしっかりとしていました。
習ったのは中学の英語と数学で、お下がりの教科書(私の場合兄のお古だった)を使って、「鉄は熱いうちに打て」と言わんばかりにまだ体験してもいない中学の授業を先取りして、どんどん進んで行きました。英語などは実際、四月になって本当に中学に入学した時には1年の教科書はすでに習い終えていて、さらに二巡目で一冊全部の丸暗記を始めていた程です。
勉強は嫌いではなかったと思います。しかし週に三日、宿題もあって、自由に過ごせる時間が急に少なくなったのを実感していました。

道草、寄り道、回り道、様々なものに好奇心を向ける機会は、着実に減っていきました。不思議不可思議より、英語の文法や数学の方程式。
少年時代の日が暮れようとしている‥‥・おそらくそんな時期でした。

次回へ続く

ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (41)

最終話「夕暮れ」 その一

「夕暮れを完全に把握しました。」
ある邦画の一場面で発せられる台詞です。

さて、ここで問題です。上記の台詞が登場する邦画は次のうちどれでしょう?
① 森田芳光監督作品 「家族ゲーム」
② 相米慎二監督作品  「台風クラブ」
③ 市川準監督作品 「BU・SU」
④  金子修介監督作品 「1999年の夏休み」
⑤ 中原俊監督作品  「櫻の園」
⑥ 中島哲也監督作品 「下妻物語」
⑦ 山下敦弘監督作品 「リンダ リンダ リンダ」

答えは、いずれ語ることとして‥‥
「夕暮れ」についてのお話です。

そもそも夕暮れは、遊びの終わりを意味していました。
子供の頃は外で遊ぶ事が多く、休みの日には里山や海辺、学校のある日は放課後駄菓子屋に溜まってそのまま近くの空き地に移動して遊ぶ、お寺や墓地で遊ぶ、町中を探検する‥‥‥。しかし一番たくさん遊んだ覚えがある場所は、いったんランドセルを置きに家に帰り再び戻った小学校でした。
当時の小学校は塀やフェンスに囲まれて無く、施錠した後の建物に入りさえしなければグラウンドや校庭などの敷地内どこでも出入りが自由でした。それこそ屋根の上や縁の下もです。(当時の校舎は木造一部二階建てで瓦葺き、体のまだ小さい子供だから入れる縁の下がありました。)
小学校へ行けば必ず誰かがいて、何人かそろえばすぐに「遊び」になりました。土団子づくりに始まり、地面に図形を描いて小石を動かし自分の陣地を拡げていく遊び「陣地取り」、五寸釘一本あればできる遊び「釘立て」、拾ってきた瓦を駆使して対決するチーム戦「瓦投げ」、もちろん鬼ごっこやかくれんぼ、缶蹴りもやりましたが、かなりのバリエーションが存在していました。誰が考案したのかそれぞれの遊びの一つ一つのルールは全く良く出来ていて、おそらく上級生から下級生へ、そのまた下級生へと伝承してきたものなのでしょう、そんな意味からすると小学校という遊び場は「優れた空間」であったのだなと改めて思います。

遊びは、大人数で大がかりになればなるほど楽しくなります。鬼ごっこやかくれんぼなどは小学校の敷地全体を使ってやると壮大なものになり、思わず時を忘れました。当時の小学生は誰一人、腕時計を持っていなかったし、大きな時計は高価だったのか校舎の外観のどこにも時を告げるものは存在していませんでした。

そんな時夕暮れは、遊びの続行不可能を知らせてくれるのです。あと少しあともうちょっとと続けていると、あっという間に日は落ち、傍らにいる友達の顔が判別できない程暗くなります。

いつまでも遊んでいたかった私の場合大抵、夕暮れは把握できないうちにさっさと過ぎ去って行きました‥‥‥。

次回へ続く