ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (44)

最終話「夕暮れ」 その四
「一枚の報道写真」について‥‥これから記していこうと思いますが、小学六年生のその日見たのが最後で、現在まで二度と同じ写真を目にする事はありませんでした。
あの写真は本当に存在したのだろうか?子供の頃の自分の妄想か、夢か何かの後付けされた記憶ではないかと考える事もありました。
何とも心許ない話ですが、やはり自分を信じることとします。
お読みになる皆さんは、その辺に留意してお付き合いください。

1970年11月下旬の朝、私はいつものように学校へ行く仕度をしていました。家族はもう全員出かけていて、学校が近いので通学時間が短い私が一番最後に戸締りをして家を出ます。
前日の都内は恐らく騒然としていた事でしょう。新聞の号外まで出たと聞きます。テレビを点ければ朝から報道であふれていたでしょうが、私にとっては普段と同じ朝。愚かにも私は全く、何も知らずにいたのです。
居間のカーペットの上に無造作に新聞が置かれています。A新聞の朝刊(地方だったので夕刊はなく、配達は朝だけ)が一面を見せていました。
ふと目をやると、「三島由紀夫」の活字が、はっきりと読み取れました。

隣県三重を舞台にした漁師と海女さんの話、「潮騒」の著者。それが、その時の私が「三島由紀夫」について知っている全てでした。
ふだんはテレビ欄しか見ない私でしたが、紙面のただならぬ雰囲気に吸い寄せられ、屈み込みます。読めない漢字、意味不明の難しい用語を避けて、拾い拾い、読み始めました。

事件の経緯は後に語るとして、著名な作家の突然の人生の幕引きと、誰もが耳を疑ったであろう最後の瞬間。内容を把握しきれないまでも、ただならぬ事態だという事はひしひしと伝わってきました。そして何より、紙面を支配するがごとき一枚の写真‥‥‥
モノクロで暗く、ピントが合っているのかいないのか。恐らく事態収拾の直後、窓越し或いは開いたドアの隙間から部屋の中(総監室)に向けてシャッターを切った感じの、混乱が写り込んだ様な一枚でした。

私は暫くの間‥‥写真のある部分に目を凝らしていました。
「‥‥‥‥これって‥」
問いかけようと顔を上げましたが、もちろん誰もいません。

再び写真に視線を戻し、再び目を凝らしてみる‥‥・・
様々が写り込んでいるフレームの中、私は、床にあった黒い丸っぽいものが何なのか、はっきりと判別できずにいたのです。

次回へ続く

ぼくらのウルトラ冒険少年画報 (43)

最終話「夕暮れ」 その三
不可解な物事に対して不安や恐れを抱き、原因を推し量ってどうにか納得する事によって「安心」を手に入れる。
「安心」の獲得は、頭の中にわだかまっている記憶を、心の抽斗のどこかに整理をつけてしまい込み、忘れてしまう‥・忘れてしまえる意味を持っていたのだと最近気付きました。
「安心」出来なかったものの記憶は、どんな些細な事でも、いつまでも忘れられません。いつまでも残り続けて、後の生活に何らかの影響を及ぼしていきます。

小学生の私が、日常生活の中で不安や恐れを抱き、「安心」が獲得できなかったものは様々ありましたが、突き詰めればそのほとんどが大人達(人間)の行動に起因するものだった気がします。

先生の言動への不信感に始まり、連日テレビで流れる「公害問題」や「ベトナム戦争」などの報道。
高度成長期のツケだったのでしょうか、四大公害病に加え「光化学スモッグ」や「ヘドロ」という言葉を覚えます。
変わらず続く冷戦の、資本主義と社会主義のイデオロギー対立と戦争。
「七十年安保」の顚末で、目的を見失いつつあった活動家の人達のその後の驚くべき行動。

勿論当時は難しいことはわかりません。野次馬の人垣の後ろで、何とか様子をうかがおうと背伸びをしていた子供だったのです。しかしながら、傍観者を決め込む「対岸の火事」でも、伝わってくる熱さは確かに感じていました。

そして小学六年生の秋、11月下旬のある日、私にとって極めて印象的な、決してどの心の抽斗にも収まりがつかない、一人の作家が起こした事件を知るのです。

次回へ続く