悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (217)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百二

とっさの判断で分岐通路へと飛び込んで身を潜め、そこから、クラスの子供達数人と風太郎先生が直線通路を左から右へと通り過ぎて行くのを見送ったぼくと高木セナだった。
そして、少しの間を置いて彼らの後をつけるべく、ぼく達も直線通路へと飛び出して行ったわけだが‥‥

「え?!!」

飛び出して右に曲がったすぐの場所に立っていたのは、とうに通路の先へと歩を進めていたはずの風太郎先生だった。

ぼくと高木セナは、凍りついた様に立ち止まる。
風太郎先生は、こちらに背を向けたまま黙って立ってはいたが、すでにぼく達の存在に気づいていて、明らかに、ぼく達が直線通路に現れるのを待っていたという態勢だった。

「ふ‥ゥ」 ゴクリッ‥ 「風太郎‥ 先生‥‥」
ぼくは、唾(つば)を飲み込んでから、やっとの思いで声を絞り出した。
だが、後ろ姿の風太郎先生からは、反応はなかった。
「‥せっ 先生?」今度は上擦った調子で、高木セナが声をかける。
しかし、やはりしばらく待ってみても、何の返答もない。

ヒクッ‥ ミシㇼ‥
その時である。奇妙な音が、微(かす)かに漏れた。
そして風太郎先生が、いつの間にか、こちらに振り向いていた。
クチャッ‥‥
いや違う。彼は振り向いてなど、いなかった。
顔は確かにこちらを向いたが、両肩と背中は微動だにせず、そのまま後ろ向きの状態で‥、まったく変化していなかった。
つまり、首の付け根から上の部分だけが、百八十度回転して‥‥、こちらに顔を向けたのだ。
つまりそれは、人間の為せる動きでは‥‥なかった。
しかし、ぼくは咄嗟(とっさ)に一つの解釈へと辿り着いていた。もともと切れた首が胴体に乗っかっていただけで‥、その首だけが根無し草の様に回転したのだと‥‥‥‥‥


一周忌が過ぎ‥ すでに、三回忌も済ませていた‥‥‥‥
娘が、僕と妻の前から消滅し、たった一つ残していった『ソラ』という名の空白の‥その輪郭をなぞるだけの悲しい時間が、虚しく過ぎて行った。
描きかけていた未来の風景が搔き消され、生きていくことの意味を見失ってただ‥疲弊して行く日々。仕事にも身が入らずミスばかり繰り返し、人込みを嫌ったりクリスマスを呪うようになっていた。
そういう毎日を何とかやり過ごしながら、身に染みて理解したのは‥‥、悲嘆と後悔からは何も生まれてこないということ‥だった‥‥‥‥‥

次回へ続く

我為すことことごとくこれ蛇足也 其の六

「ちいさい秋みつけた」のは‥‥誰ですか? 後編

外には出られず、施設内で療養を続けなければならない身の上の『観察者』にとって、開けた窓からの自然の景色は、僅かな慰めであったかも知れません。
ただ‥‥、学校帰りの子供たちが施設の敷地に入って来て、林の中で道草をしていくことが度々あって、そういう時の『観察者』は、必ず開けていた窓をそっと閉じてしまうのです。
なぜなら‥‥、実は『観察者』は、彼らと同年代の男の子であって、自分の今の境遇を彼らに知られたくないという感情が働いたからでした。

夏の日差しが徐々に鳴りを潜め、『観察者』が朝晩の寒暖の差をはっきりと感じ始めていた頃、久しぶりに林の方から、子供たちの声が響いてきました。
すでに閉じてしまった窓の外に、好奇心から耳をすます『観察者』。手をたたく音や囃(はや)し立てる声が聞こえます。どうやら彼らは林の中で、『目隠し鬼ごっこ』を始めた様子です。
口には出しませんでしたが、自分もあの中に混ざって一緒に駆けまわりたい‥‥と『観察者』は思いました。そしてしばらく‥そんな自分の姿を、頭の中に思い描いていました。
そんな時、「キーイィ! キーイッ!」と百舌鳥(もず)が鳴く鋭い声が、子供たちの歓声に混ざって聞こえて来て、まるで「おいで! おいでよ!」と、『観察者』を誘っているみたいです‥‥‥‥

「‥だまされる‥ もんか‥‥‥」
やつらはきっと‥ いつか見た早贄(はやにえ)の様に、自分を生きたまま木の枝に突き刺し‥‥ 林で遊んでいる子供たちみんなの前に晒(さら)して‥ 笑いものにしようと企んでるのだ‥‥‥‥‥

気がつくと施設のおばさんが、『観察者』のベッドのサイドテーブルに、温かいミルクを置いていってくれました。それを口にしながら、いつもの癖(くせ)で、はぜの木の葉越しの別館の三角屋根にある風見鶏に目を向けてしまう『観察者』。でも窓はさっき閉めたままです‥‥。
錆びついて動かなくなった風見鶏は見えませんでしたが、磨りガラスを透かして、窓のすぐ側に立つはぜの木の葉が、いつの間にか色づき始めているのを知りました。その色はまるで沈んでいく夕日。命が燃え尽きてしまう色‥‥‥

「誰かさんが‥ 誰かさんが‥みつけたよ‥‥」と『観察者』は嘯(うそぶ)いてみました。
「まるでちっぽけな世界の‥‥ ちっぽけな秋を‥ さ‥‥‥」

やがて秋は深まりを見せ、落葉樹の多い林の中の地面は一面その落ち葉で覆われて行きます。
寝つきの悪い『観察者』にとって、そんな時期の到来は、憂鬱(ゆううつ)でした。
なぜなら‥ 夜中、明かりの落ちた部屋のベッドで眠れずにいて、自(おの)ずと辺りの静けさに耳をすませてしまうと、窓の外の真っ暗な林の中の、奥の方から聞こえてくるのです。カサ‥コソ‥カササと、誰かが落ち葉を踏みながら彷徨(さまよ)っている幽(かす)かな音が‥‥‥‥
音はいつの間にか、聞こえなくなりますが、『観察者』は思うのです。林の中を彷徨っているのはきっと、この施設にいる者の寿命を見極める役割の誰かで‥‥‥、あの音が消えずに、林の奥から真っすぐこちらに向かって来た時‥‥、その時が自分の生命の尽きる時‥なのだと‥‥‥‥‥