悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (260)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百四十五

童(わらべ)はみたり 野なかの薔薇(ばら)
清らに 咲ける その色愛(め)でつ
飽かずながむ 紅(くれない)におう
野なかの薔薇

手折(たお)りて往(ゆ)かん 野なかの薔薇
手折らば手折れ 思出ぐさに
君を刺さん 紅におう
野なかの薔薇

童は折りぬ 野なかの薔薇
折られてあわれ 清らの色香(いろか)
永久(とわ)にあせぬ 紅におう
野なかの薔薇


傑作と言われたゲーテの詩を、近藤朔風が訳詞した『野中のばら』は、名訳である。シューベルトの曲に声を弾ませ、あるいはヴェルナーの曲に酔いしれながら、子供だったぼくもよく歌った。
その頃にはほとんど理解していなかった歌詞の『真意』が味わえるようになったのは、やはり大きくなってからだったと思う。なぜなら詞には明らかに、野ばらに喩(たと)えられた清らかな女性と少年との出会い、さらに少年の、彼女に対する憧(あこが)れと淡い恋心が描かれているからだ。
ぼくが強く惹かれたのは、二番以降の描写だった。野に咲いていたばらへの少年の思いが、純粋であればあるほど、彼はその美しさを手に入れたくなる。 『手折りて往かん 野なかの薔薇』 そして、摘み取って持ち帰ろうとする。 『手折らば手折れ 思い出ぐさに』
少年の身勝手な愛に、摘まれる花も僅(わず)かな抵抗を試みる。野ばらには刺(とげ)があった。 『君を刺さん 紅におう』 そしてとうとう‥ 『童は折りぬ 野なかの薔薇』 『折られてあわれ 清らの色香』‥‥
果たして‥ 少年の指には血が滲(にじ)み出て、微(かす)かだが一生忘れられぬ‥そんな痛みが残った。 『永久にあせぬ 紅におう』 
ぼくには、『紅におう』は、少年の流した真っ赤な血に思えたし、痛みは、花を摘んだその代償として、『永久に』与えられたものなのだと思った。

ぼくは今でも、どこかで『野中のばら』の歌詞に接する度(たび)に、しみじみ思い出す。
幼き日の恋の顛末(てんまつ)などというものは、少年の未成熟な心と身勝手な行動が自ら招き入れてしまった罪悪感と後悔を背負い込むことで、大概(たいがい)は幕が引かれるのだ‥‥‥と。


しばらくの間(あいだ)ぼくは目を閉じて‥‥、シューベルトの曲に乗って脳裏に流れている『野中のばら』の歌を、黙って聞いていた。
ぼくの拵(こしら)えたこの世界に、ぼくにとって意味を持たないことなど、何一つ存在しないはずだと‥‥もう一度自分に言い聞かせていたし、もしかしたらこの歌が、求めていた内なる声であるかも知れないと‥‥考えていた‥‥‥‥

やがて‥閉じていた目をゆっくり開いて見ると‥‥、壁に描かれた『赤い音符』の最後の二音の上に、自分の手が被(かぶ)さる様に置いたままになっているのが視界に入った。そしてその‥、置きっぱなしにしていた自分の手が‥‥、紛れもない『少年の手』であったことに、改めて気がついた。
そうだ! ぼくの体は今『小学二年生の少年』だったんだ! と‥‥‥腑(ふ)に落ちた。

次回へ続く

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