悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (259)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百四十四

「 いいッ? もう一度、行くわよ!」
セナはそう言って再び壁に向かい、一つ一つの『赤い花』をピアノの鍵盤でも叩くみたいに指差しながら、歌い始めたのである。

「 わ・ら・べ・はぁ みい たあ りぃぃ‥‥ 」
それは予想通りの‥、シューベルト作曲の『野ばら』だった。

「 そして、まだ続いてて‥。この辺りから、急に赤いスタンプの数が増えてるので分かり難(にく)くなってるけど‥‥、こうだと思う 」 そう言ってセナは迷いながらも、指差しの続きを、さらに壁の右へ右へと動かして行った。
「 の・な・か・のぉ ばぁあぁ ら‥‥ ‥ 」

「 ‥‥そう‥ 」 彼女の指が止まった。「 そう、ここまで。ここまでの4小節目で‥、全部 」
手足を動かしながらの懸命な解説を試みてくれたセナが、こちらに振り返ってぼくを見た。
「 ただ‥それだけの発見‥なんだけど、何か意味があるのかなあ? 本当にただ、楽譜を知ってる誰かがいたずらに、『野ばら』の楽譜をなぞってスタンプしていっただけのこと‥かも知れない‥‥‥ 」

「 だとしたら‥‥ 随分と痛々しい『いたずら』だなあ‥‥ 」 ぼくはそんな風に受け答えしながら、セナが立っている壁の前まで近づいていった。
そしてしばらくの間(あいだ)黙って、血のスタンプで表現された一連の『赤い音符たち』を眺めていた。

「 この世界では‥‥ 『何の意味もない』などという物事は存在していない。そう悟ったばかりなんだよ」 ぼくは、傍に立って様子を窺(うかが)っていたセナに対して、まるで独り言を呟くみたいに‥語りかけていた。
「 そう‥なんだ‥ 」 セナは一言返しただけで、余分な詮索(せんさく)はして来なかった。
そう‥。それでいい‥。この世界は、ぼくが拵(こしら)えてしまったものらしいし、今いるここも、この場所も、恐らくそうであるのだろう。
だから、壁にぶつかって立ち往生しようとも、諦める必要はない。そんな時は、自分に‥。内なる自分に、問いかけてみれば良いではないか‥‥‥‥‥

「 わ‥ら‥べ は‥ みい たあ‥‥り 」
ぼくは、壁に並んだ『赤い音符』を一つ一つ、直(じか)に手で触れながら、鼻歌の様に『野ばら』を歌い初めていた。
セナが露骨に嫌な顔をした。ぼくが、『赤い花(音符)』に平気で触れていたからである。彼女自身は解説する時もただ指で『赤い花』を指し示して行っただけで、実際には一切(いっさい)手を触れていない。それらが恐らく‥知っている誰かの血と肉で描かれたことに嫌悪(けんお)していたからだ。

「 ‥の な‥か‥の‥ ばあ‥ ら‥ 」
人の血であろうが、肉片であろうが、ぼくは構わず‥、『赤い音符』に手を置きながら最後まで続けた。
そして、「 ばあ ら‥ 」の2音の『赤い音符』が、血の量が多かったのだろう、幾らかの厚みを持った状態で乾いて、壁にへばりついているのを感じ取った。おまけに、乾ききる前に一本二本と、血が壁板下方に筋を引きながら垂れていて‥‥、それがまるで花の茎(くき)の様に見えて仕方なかった‥‥‥‥

その時‥、ぼくの脳裏に‥、ゲーテの『野ばら』の訳詞、『野中のばら』の二番の詞が、シューベルトのメロディーに乗って‥‥、大音量で流れ出した。

次回へ続く

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です