悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (281)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百三十六

病院の廊下か‥‥‥
あの時‥、一体どこの病院の廊下を連想したのだろう?‥‥‥

振り返って見ると、娘のソラが保育所で突然気を失ってから、どれだけの数の病院を訪ねただろうか?
どれだけの数の病院の待合室で時を過ごし、どれだけの数の病院の廊下を歩いただろうか?

ソラの病(やまい)は、診断を受けてもはっきりとした病因(びょういん)を特定することの難しい、ゆえに治療方法、治療方針の定まらない、極めて厄介(やっかい)なものであった。
ソラを連れたぼくとセナは、幾つもの病院や診療所を訪れ、検査入院を繰り返した。心臓や血管、脳の専門医の診断を求めて遠出したことも、一度や二度ではなかった。 内因(ないいん)としての、体質遺伝やら先天的な循環器の奇形など、外因(がいいん)としては、未知の病原体による感染症や様々な食物 薬物によるアレルギー反応まで、あらゆる可能性が検査の対象となった。
しかし、数ヶ月が経過し一年を過ぎても、ぼく達家族は『胸を撫で下ろせる様な』十分な結果を得ることはできなかった。『藁をもすがる』思いで耳を欹(そばだ)てた医師の言葉も、差し出された検査数値も、何の答えにもならない、只々(ただただ)不安と不信感を募(つの)らせていくだけのものでしかなかった‥‥‥‥‥‥

そうやってソラとぼくとセナは、様々な病院の控室で呼び出しがあるまで待機し、新しい病院を訪れる度(たび)にその病院の‥右も左も分からない廊下を寄り添って歩いた。


右も‥左も‥ 分からない廊下か‥‥
迷路の通路と繋(つな)がるイメージだな。おまえが一瞬連想してしまったのも、無理はないか‥‥

ぼくは、セナと二人してソラを連れ、幾つもの病院を訪ね歩いた日々を、今更(いまさら)ながらに思い出していた。
しかしそんな、娘の病を何とかしようと妻と共に奔走(ほんそう)した日々は、全てが徒労(とろう)に帰したのだ。結局、ソラは救えなかった。
ぼくは、知らぬ間に泣いていた。そして、その流れる涙の中に、やるせない感情だけではなく‥、行き場のない『怒り』が内在しているのを、強く感じていた。

そうだな‥‥ 確かに、誰かを憎まずにはいられないおまえの気持ちは理解できる。例えそれが、どんなに理不尽(りふじん)な感情‥でもな‥‥‥‥

ぼくはその時、やつが共に涙を流してくれているのを、感じ取っていた‥‥‥‥‥

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (280)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百三十五

ぼくに対するやつの『進言』とやらは、『この気持ちの悪い世界』を拵(こしら)えた責任と『ヒトデナシ』を退(しりぞ)けるための覚悟を、改めてぼくに問い直すものだった。
しかし、ぼくがこの世界を創造したという自覚や、それに関連するはっきりとした記憶は、残念ながら戻っては来なかった。もっとも、やつの言うことが全部正しくて、戻って来るべき記憶がちゃんと存在していればの話だが‥‥‥‥‥

ふふん‥・ もちろん、存在しているとも。
おまえがここで起こっている事の理由を本当は知っていながら、思い出せないと言って『知らない態(てい)』で通しているのは、おまえ自身がこの遠足の中で『そういう役回りを最初から演じたかった』からなのだと言うことが、朧気(おぼろげ)ながら見えてきたよ。つまりおまえはこの世界を、言わば心の解放感を、いつまでもとことん味わっていたいわけなんだ。
だがな‥、問題は『ヒトデナシ』だ。これまで『ヒトデナシ』がおまえの望む筋書きに沿うかたちで動いて来たと考えるのは、どこか危(あや)うい気がしてならない。『異物』としていつの間にか心に侵入していた、不透明極(きわ)まりない存在なんだからな。だから、おまえの今の『役どころ』が、この世界でいつまで通用するのかどうか、おれには分からない。特に、おまえが『ヒトデナシ』と直接対峙(たいじ)する瞬間以降はな‥‥‥‥‥‥


話の締めくくりにやつは、ぼくとセナにとって一番のアドバイス、ありがたいヒントをくれた。
ぼくがこうして頭の中でやつと会話している間中ずっと、セナの手を引いたぼくの体は、セナと一緒に巨大迷路廃墟の中の在りえない直線通路を、延々と歩き続けていたのだ。先の窺(うかが)えないその通路は、無限に続く様相を呈していて、合わせて‥二人とも歩を進める暗示にでもかけられた様に黙々と足を前に出していた。

このまま何の手立ても講じなければ、おまえとセナはこの直線通路を永遠に歩き続けることになるだろうよ。
おまえ達が目指しているのは、この巨大迷路廃墟の真ん中にある展望櫓(てんぼうやぐら)なんだろうが、おまえが『おまえの中の別の記憶」とごちゃ混ぜにしてしまったおかげで、『別の場所』とも繋がるようになっちまった。迷路の中が多元的になって、ますますややこしくなっちまったんだ。
おまえ達がこの迷路廃墟に入ってすぐに、一時(ひととき)迷い込んでしまった場所を覚えてるか?

おっ 覚えていた。確か‥‥暗くて、奥行きがかなりありそうな空間で、どこからか読経(どきょう)が‥流れて来ていた‥‥‥。

そうだよ。そこがどうやら、おまえ達が最終的に目指す場所だったんだと思う。
もしかしておまえは、迷路の出入り口を入ってすぐ‥‥、迷路の中とは違う全(まった)く別の場所を連想しなかったかい?

全く‥ 別の場所だって??‥‥‥

ああ‥。いざ入ってみた迷路の中の通路は、意外と狭かったはずだが‥、それ以上におまえの体は小さく、目線も低かったはずだ。何(なに)せおまえは小学二年生だからな。
そこでおまえは、ほんの一瞬、そこを別の場所と勘違いしてしまった‥‥‥‥ 違うかい?

‥‥‥‥‥‥‥‥‥  ‥‥もしか‥したら、それって‥‥ 病院の廊下?‥‥のことか??

その通り! ‥だと、おれは考えている。

次回へ続く