第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百二十八
‥‥‥そう‥か
少し間があってから、ヤツの声がぼくの頭の中に低く響いた。
しみじみとしたその声は、それまでのヤツのものと違って、支配的な圧力が欠けていた。
まあ‥ それも良かろう‥‥‥
ぼくはいささか、拍子(ひょうし)抜けしてしまった。輪をかけたヤツの罵倒(ばとう)を、すぐさま聞く羽目になると思っていたからだ。
ソラを失った悲しみは‥、おれも同じなんだ。おれにとってもソラは、たった一人の娘だったからな‥‥‥
なるほど、ヤツにとってもソラは愛娘(まなむすめ)であったことを忘れていた。ヤツも、ぼくと同じ喪失感を味わっていたわけか‥‥‥‥
だがおれは、ソラを失ってからのこの先の人生を‥どうやって生きて行くのか、考えなければならなかったんだ。残されてしまった妻のセナとおれとで、一緒にな‥‥‥‥
ヤツのその言葉は、ぼくにとっても重いものだった。ヤツにとってもやはりセナは妻であり、最愛のパートナーなのだ。
いつまでも悲嘆に暮れているわけにはいかない。セナとふたり、この先の月日を、ともに果てるまでの途方もない長い年月を、しっかり支え合って生きて行かなければならないんだ。ソラへの思いを‥胸に抱いてな‥‥‥‥
ヤツの言っていることは、やはり正論だった。
それに‥ ぼくもまた同じ考えで、ソラを失ってからの毎日を、そうやって生きて来たつもりだった。
だが、もしかしたらそれは、『もう一人の自分』であるヤツの声に、知らず知らずのうちにぼくが従っていたのかも知れない‥‥と思った。
しかしながらこうして今、ヤツが面と向かってぼくの頭の中にその『正論』を語りかけてきたということは‥‥、裏を返せばぼくがそれを実践(じっせん)出来ていなかった証(あかし)‥に他(ほか)ならないのではないか‥‥‥
そこまで‥分かっているのなら、もう何も言うまい。この先、おまえに何が起ころうと、何が待ち受けていようと、おれはこのまま大人しく引き下がって、黙って見守るとしよう。
つまりはソラの死が、おまえにとっても、勿論(もちろん)おれにとってもだが‥、決して整理のつかぬ受け止め難(がた)い重大な事件‥‥だったと、割り切ることにしようじゃないか‥‥‥‥‥
ほう‥‥ と、ぼくは納得しかけたが、次の瞬間、言い知れぬ不安感が心に染み出して来た。
ヤツに指摘された、『破綻寸前』だというのぼくの人格は、『一体全体どこがどうなってしまっているのか?』具体的に何も告げられない状態のまま、ここでヤツに見放されてしまうのかと‥心細くなったのだ。
それに、ヤツはいきなり、『こんな気持ち悪い世界を ぼくが創り出してしまった』と非難したあげく、ぼくが『この世界』のあらゆるものの意味や正体を知っていながら、忘れた振りをしていると毒突(どくづ)いたのだ。
果たして‥ そんなことが本当に有り得ると言うのなら、そのれっきとした証拠の一つでも、ヤツが去っていく前に、残していってほしかった。
次回へ続く