悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (273)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百二十八

‥‥‥そう‥か

少し間があってから、ヤツの声がぼくの頭の中に低く響いた。
しみじみとしたその声は、それまでのヤツのものと違って、支配的な圧力が欠けていた。

まあ‥ それも良かろう‥‥‥

ぼくはいささか、拍子(ひょうし)抜けしてしまった。輪をかけたヤツの罵倒(ばとう)を、すぐさま聞く羽目になると思っていたからだ。

ソラを失った悲しみは‥、おれも同じなんだ。おれにとってもソラは、たった一人の娘だったからな‥‥‥

なるほど、ヤツにとってもソラは愛娘(まなむすめ)であったことを忘れていた。ヤツも、ぼくと同じ喪失感を味わっていたわけか‥‥‥‥

だがおれは、ソラを失ってからのこの先の人生を‥どうやって生きて行くのか、考えなければならなかったんだ。残されてしまった妻のセナとおれとで、一緒にな‥‥‥‥

ヤツのその言葉は、ぼくにとっても重いものだった。ヤツにとってもやはりセナは妻であり、最愛のパートナーなのだ。

いつまでも悲嘆に暮れているわけにはいかない。セナとふたり、この先の月日を、ともに果てるまでの途方もない長い年月を、しっかり支え合って生きて行かなければならないんだ。ソラへの思いを‥胸に抱いてな‥‥‥‥

ヤツの言っていることは、やはり正論だった。
それに‥ ぼくもまた同じ考えで、ソラを失ってからの毎日を、そうやって生きて来たつもりだった。
だが、もしかしたらそれは、『もう一人の自分』であるヤツの声に、知らず知らずのうちにぼくが従っていたのかも知れない‥‥と思った。
しかしながらこうして今、ヤツが面と向かってぼくの頭の中にその『正論』を語りかけてきたということは‥‥、裏を返せばぼくがそれを実践(じっせん)出来ていなかった証(あかし)‥に他(ほか)ならないのではないか‥‥‥

そこまで‥分かっているのなら、もう何も言うまい。この先、おまえに何が起ころうと、何が待ち受けていようと、おれはこのまま大人しく引き下がって、黙って見守るとしよう
つまりはソラの死が、おまえにとっても、勿論(もちろん)おれにとってもだが‥、決して整理のつかぬ受け止め難(がた)い重大な事件‥‥だったと、割り切ることにしようじゃないか‥‥‥‥‥

ほう‥‥ と、ぼくは納得しかけたが、次の瞬間、言い知れぬ不安感が心に染み出して来た。
ヤツに指摘された、『崩壊寸前』だというぼくの人格とは、『一体全体どこがどうなってしまっているのか?』具体的に何も告げられない状態のまま、ここでヤツに見放されてしまうのかと‥心細くなったのだ。
それに、ヤツはいきなり、『こんな気持ち悪い世界を ぼくが創り出してしまった』と非難したあげく、ぼくが『この世界』のあらゆるものの意味や正体を知っていながら、忘れた振りをしていると毒突(どくづ)いたのだ。
果たして‥ そんなことが本当に有り得ると言うのなら、そのれっきとした証拠の一つでも、ヤツが去っていく前に、残していってほしかった。

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (272)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百二十七

こんな気持ちの悪い世界を、創り出しちまった‥‥ だって?!?
ぼくはしばらくの間、ヤツが何を言い出したのか解らなかった。『こんな気持ちの悪い世界』とは‥ 今彷徨(さまよ)っている巨大迷路のことを言っているのか?? そんでもって、ここを『創り出しちまった』とは‥一体全体‥‥ どういう意味なんだ!?

おいおい!違うだろ! この巨大迷路廃墟だけではなくて、林の中の道も芝生広場も駐車場も、舗装道路も周りの茂みも全部含めて、ハルサキ山全体のことを言ってるんだよ! つまりはこの遠足のすべてが、創り物だってことだ!!
それも、こんがらがっちまってるおまえの作、演出ときてるから、何もかもが気持ち悪いぜ!!

ヤっ、ヤツはいったい‥‥ 何を言ってるんだ???? この『ハルサキ山への遠足』が全部、『ぼくの作、演出による創り物』だと?!?
馬鹿も休み休み言え! ぼくは確かに、この遠足への参加を望んでいたのかも知れないが、いろんなトラブルに、有無(うむ)を言わせず巻き込まれて来てしまっただけじゃないか!

おいおいおい!この期に及んで、まだそんなことを言うか!
ハッキリさせておくが、おれは、おまえが完全に壊れてしまう前に何とかしようと、ここでこうして初めて、口を出すことにしたんだ。おまえが恐れている、おまえの人格を乗っ取ろうなどとは、微塵(みじん)も、一ミリも、端(はな)っから考えてない。ここに来るまでにおまえは、自分の知らないうちににおれの人格が勝手に何度か表れて、汚い言葉で人を罵(ののし)っていったとかどうとか思っているみたいだが、おれは一切そんなことはしていないからな。全部、壊れかけたおまえの人格がやったことだ。

嘘をつけ!そんなの嘘に決まっている。 現に今、ヤツはぼくの体を乗っ取って、何事もなかったかのようにセナと手を繋いで、仲良く歩いているじゃないか!

なっ、仲良くだって?! おいおいおいおい、もしかしておれに嫉妬しているのかよ!
安心しろ。おれは乗っ取ったりしていない。おまえとちゃんと話すために人格を、言わばニュートラルの状態にしてやっただけさ。ただ夢遊病みたいに歩いてるだけで、おれでもおまえでもないんだ。

‥‥‥‥‥‥。くそぅ‥‥。
いつだってヤツの言うことは正しく聞こえる。今までだってずっと、そうだったんだ。だからぼくは、ヤツが大嫌いだったんた。
ヤツが心の中から語りかけることは、いつも正しくて筋が通っている。
ヤツは頭が切れて、現実的で、おまけに悲観主義者だから、夢や理想を求めるより現実を見据えろと語りかけて来て、様々な刺激に高鳴る心を萎(な)えさせる存在だった。最初はヤツの声に耳を傾けて、それに従っていた。そのせいか、ぼくは、家族を始めとする周りの大抵の大人達から、大人びた賢い子供だと誉(ほ)め称(そや)されたものだった‥‥‥‥‥
やがて思春期を迎え、そんな何もかもが嫌になっていった。うんざりしてしまった。つまらない現実の枷(かせ)を粉々に打ち砕き、どこかへ走り出して行きたくなった。そして、ヤツの声に逆らうことこそ、意味のあることに思えて来たのだ。
そんなふうにぼくは、ヤツを蔑(ないがし)ろにすることで、本当の自分を見つけていけたような気がする‥‥‥‥‥

だからなんだ!おまえは何が言いたい! 今回のおれの忠告にも、耳を貸さないとでも言うつもりか?

‥‥そうかも‥‥‥ 知れない‥‥‥‥‥

次回へ続く