第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百二十
自分で言っておきながら‥‥ ぼくの解釈は全部が全部出鱈目(でたらめ)で、見当違いな代物(しろもの)である様な気がしていた‥‥‥‥‥
セナの予知夢はそのほとんどが、これから起こる出来事を見事に言い当てていて、ぼくは小学生の頃からそんな彼女の能力に心酔(しんすい)していた。
ただ‥、意味が明快な夢と違って、正しい解釈を必要とする難解な内容のものも必ずあって、そんな時、まだ小学生だった高木セナから「こんな‥へんてこな夢を見た‥」と話を持ち掛けられたのが、彼女に興味を示し始めていたぼくであった。
当然その時のぼくも彼女と同じ小学生であったわけだが、まだ発達途上の頭をあれこれと絞って、彼女の前で稚拙な推論を披露してみせたものだった。
結局‥そんな度重(たびかさ)なるやり取りが、ぼくと彼女との距離を少しづつ縮めていって、今に至ったわけなのだろうが‥‥‥‥‥
だからぼくには、どんな時であっても、セナの信頼を裏切る気持ちは毛頭(もうとう)ない。
当然今もそうであったし、これからもそうであり続けるだろう。
しかしながら、『ぼくが運転手を務める血まみれ送迎バス』の夢の解釈は、なぜかそういう訳にはいかなかったのだ。それはどうしてだろう?‥‥‥‥‥
さっき、セナに夢の解釈を話して聞かせている時、ぼくの心のどこかに、『見て見ぬふりをしている』という奇妙な感覚が存在していた。もっと言ってしまえば、『本当はすべてを知っているのだけれども、知っていてはいけない事なので、知らない事にしておこう』と自分自身が勝手に判断を下している感覚だ。
ぼくは、この遠足に参加していることを認識した当初から、実は『この遠足で起こる、すべてを知っている‥』あるいは『この世界で起こる、何もかもを承知している‥』という感覚が、心のどこか奥の方にすでに存在していたのを微(かす)かに憶えている。それは例えば、届けられた新聞に最初から挟まっている折り込み広告の束(たば)みたいに、ぼくの記憶の襞(ひだ)のところどころに勝手に挟まっていて、いつの間にか今まであった記憶と馴染(なじ)む様に徐々に同化していった‥本来ならば身に覚えのない記憶だったはずのものである。
娘のソラが旅立って以来、ぼくは生きる意味を見失い、それでも残された妻のため、ひいては自分自身のこれからのために精一杯、粛々(しゅくしゅく)と生きて来たつもりであった。しかし、そんな日常の中に身を置き続けることで、自分の心は知らぬ間に硬い殻(から)を纏(まと)い、その動きもただ内(うち)へ内(うち)へと向かう傾向に陥ってしまったのである‥‥‥‥‥‥‥
そんな時、ぼくの心の硬い殻に向かって突然、外からの謎の圧力が生じた。その圧力は日に日に大きなものとなり、このままでは、ぼくの心の殻は粉々に砕け散るだろうと恐れおののいた末(すえ)に覚悟を決めた時‥‥‥‥‥‥
その外部からの謎の圧力と、ぼくの心が辛(かろ)うじて保持していた反発力とが、突如(とつじょ)として拮抗(きっこう)し始めたのだった。
次回へ続く