悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (261)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百十六

ツジウラ ソノや他のみんなをこの巨大迷路廃墟から連れ出し、さらにはハルサキ山を脱出しなければならない。その目的を達成するためには決して避けては通れない、未だ謎多き『ヒトデナシ』と呼ばれる魔物の存在‥‥‥‥‥
しかしぼくとセナは、是が非(ぜがひ)でもこの難題を解決しなければならなかった。まずはこの巨大迷路廃墟の中、ヤツの居所を突き止め、さらにその正体をも解明し、そしてさらにはヤツを退けるために有効な手段を見つけ出して速やかに実行してみる‥‥‥‥‥‥

「はたして‥ ぼくにそこまでのことが‥できるのか?‥‥‥」
迷路内の通路をセナと手を繋いで、右へ‥左へと‥注意深く歩を進めながら、ぼくは独り言を呟いていた。
「‥‥ねえ?」 そんな弱気な言葉が耳に届いたのか、セナが不満気な声を漏らす。
「ご‥ごめん。別に逃げ腰になってるわけじゃないんだ。何しろヒトデナシは、平気で人間を切り刻むようなヤツだ。ある程度の覚悟はしておこうと思ってさ‥」 ぼくは誤魔化した。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
セナはぼくにがっかりしたのか、一言も返して来なかった。そんな彼女にぼくは少しだけ腹が立って、ついつい厭味ったらしい言葉が口を衝いて出た。
「そうだった。君は特別に、ヒトデナシに襲われたり殺されたりしない人間だった。芝生広場に到着する前の林の中の道で、君の右手につけられた浅い切り傷は確か‥、君と魔物との間で交わされた取引の印なんだって言ってたもんな。この先出くわしても、恐れる必要はないわけだ‥‥」
それを聞いたセナが、黙り込んだまま急に立ち止まった。ぼくと繋いでいた彼女の手が、振りほどく様に離れて行った。

ぼくも立ち止まった。そして振り向いた。手を振りほどいていったセナが、どんな表情をしているのか気になったのだ。

「違う! 違うの!ヒカリさん」 セナが当惑した顔をして、何度も首を振っていた。「私が『ねえ?』て言ったのは、ヒカリさんをとやかく言おうとしたんじゃなくて‥‥、今歩いているこの迷路が、おかしくないかって‥言いたかったの」
「え??」ぼくは、呆気(あっけ)にとられた。「この‥迷路が‥‥ おかしいだって?」

「そう。ずっとここまで歩いてきて、思ったんだけど‥‥ 直線通路の長さとか、通路分岐の数とか、入る前に眺めた巨大迷路廃墟の外観からは相当かけ離れた規模の‥奥行きを感じるの。もしかしたら私たち、本物の廃墟とはまったく別の空間を、彷徨(さまよ)っているんじゃ‥‥ないかしら‥‥‥‥」

次回へ続く

悪夢十夜~獏印百味魘夢丸~ (260)

第四夜〇遠足 ヒトデナシのいる風景 その百十五

遭遇した『ヒトデナシ』の様子を懸命に伝えようとするツジウラ ソノの言葉は、その表現が抽象的であったがゆえに、ぼくの想像力を巧みに喚起(かんき)した。
ぼくは、印象派の画家が描いた一枚の絵画を、頭の中に思い浮かべていた。

印象派の代表的な人物に、『睡蓮(すいれん)』で有名なクロード・モネという画家がいて、彼の作品の『散歩、日傘をさす女性』は、ぼくのお気に入りの絵画の一つであった。
爽(さわ)やかな光で溢(あふ)れる草原に、(やや低い場所から見上げた構図で)日傘をさした白いドレスの貴婦人が佇(たたず)んでいる。傍らには彼女の息子であろうか、やはり白い服を着て赤いアクセントの入った帽子をかぶった少年がいて、彼らが二人連れ立って、絶好のお天気の下(もと)で散歩を楽しんでいる様子が想像される。
日傘をさした婦人は、日傘がつくる陰だけにとどまらず全身のほとんどが逆光で描かれていて、少年もまた然(しか)り。白いドレスは、背景である雲の浮かぶ青空と、手前足元に茂る野草の色彩を映してか、薄い青や黄緑に染まっている。絵の具は、印象派であることの所以(ゆえん)とも言える十分に混ぜられた状態のものではなく、素早い筆の動きと短いタッチの連続でキャンバス上に自在に乗せられていったのであろう。あえて細部にこだわることをせず、絵筆を取る画家の目の前にある人物と風景を、その空気感とともに絵の中に定着させようと試みた結果なのかも知れない。
絵に顔を近づけてみても、婦人も少年の顔も辛うじて目、鼻 、口の位置を確認できる程度のものでしかない。しかしながら彼らの表情はなぜか感じとれて、日傘やドレスを撫でて、髪の毛と、顔にかかったベールを微かに揺らしていくそよ風と共に、確かにそこにある様に感じた‥‥‥‥‥


何も『ヒトデナシ』の存在が、そんな絵画の表現方法と関係があるとは思わないが、どうした理由からか頭の中に浮かんでしまった。
ただ‥、『細かいところを見ようとすると、暗い陰の中を覗いているみたいになって、何もかもが境目をなくしたみたいにはっきりしない』と言うのは‥‥、ヒトデナシには元々から、『細かいところ』が存在しなかったのではないかと考えてみた。
なぜならヤツは人ではなく、このハルサキ山の魔物なのだから‥‥‥‥

次回へ続く